鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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概念をより動的なものへと転換させていく。「現象学的還元」とは,われわれのごく自然な「ものの見方」からあらゆる臆見(やら偏見やら先入観)をひとまず取り払ってみる作業のことで,そうすることによって,逆にあるものが実在しているという確信をわれわれに与えている諸条件を暴き出そうとするものなのだが,この操作を思いついた時点で,「志向性」は認識された対象の意味を形成していくという「意識の意味構成の作業」である,と捉えられるようになったのである。そして,現象学は,もっばらこの意識による意味構成の作業と,意味の形成体となる対象との関わりを分析することを課題とするようになった。グローマンは,おそらくカンディンスキーにおける対象をグラフィックな要素へと「還元」する様を「現象学的還元」に相当するものとみなし,カンディンスキーの作品は,描かれた対象=意味形成体が心的な作用として意味を構成する様相それ自体をつらまえようとする試みなのだ,と解釈したのだろう。グローマン自身は,カンディンスキーとフッサールの関わりについては,先の簡単な言及から一歩も踏み込んではいない。だが,フッサールとカンディンスキーとの共通性は,単にグローマンの解釈における比喩的レトリックとして済まされることなのであろうか。確かに,科学における実証主義的方法に対する批判であるとか,「純粋性」へのこだわりであるとか,「本質」へといたる道の探求であるとか,カンディンスキーとフッサールとの間に共通する問題意識は少なからずあった。だとすると,この両者の間に,現実にカンディンスキーがフッサールの著作を知っていた(あるいはその逆)というような,何らかの影響関係は存在しないのであろうか。それともむしろ,両者が共有する当時の認識論的思想のようなものを想定すべきことなのであろうか。この論考は,カンディンスキーのみならずマルクやクレーといった他の青騎士の画家たちも含めて,彼らと現象学とのつながりを探っていこうとするものである。そして,直接的な影響があるにしろ無いにしろ,両者の間の認識論的な同質性を明らかにすることによって,「意識による意味構成の作用」を探求した画家たちとして彼らを位置づけ,そのようなものとして彼らの作品を解釈していくための端緒となることを目論んでいる。年以降のことで,そのような流行の嘴矢とも言えるモーリス・メルロ=ポンティによる「セザンヌの疑い」が発表されたのは1945年であった(注2)。だが,セザンヌ作品の解釈には,メルロ=ポンティ以前のクルト・バットやマイヤー・シャピロによるも20世紀の美術を解釈するのに現象学が盛んに適用されようになったのは,ほぼ1950-200-

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