② 山梨県における鎌倉前期彫刻について2.鎌倉前期における甲斐国の状況研究者:甲府市文化財調査審議会委員鈴木麻里子1.はじめに山梨県における藤原末期から鎌倉前期にかけての造寺造仏の主流は,従来甲斐源氏と呼ばれる人々によるものと考えられてきた。甲斐源氏は,清和源氏の流れを汲む一族で,十二世紀初頭に甲斐国定住後目覚ましい勢いで勢力を伸ばし,鎌倉幕府創立期の,特に源平合戦においては活躍するものも多かった。現在,山梨県に残る十二世紀後半の造像のうち放光寺大日如来坐像,愛染明王坐像,不動明王立像,願成寺阿弥陀三腺像善光寺の二組の阿弥陀三腺像といった主要な尊像は,いずれもこれら甲斐源氏諸流によるものであり,歴史においてと同じく,彫刻史においても甲斐源氏を中心にその研究が進められていたのである。しかし,こうした状況に大きな転機をもたらしたのが,平成八年十一月に行われた調査による大善寺日光・月光菩薩像及び十二神将像の「発見」である。この大善寺は,この時期の史料に殆どその姿をみせない,甲斐の古代以来の名族三枝氏の氏寺であり,これらの造像はその規模の大きさ,またその作者が甲斐では従来その影響が殆ど知られなかった肥後定慶の系統であるということにより,この期の甲斐の彫刻史に大きな意味をもつと思われる。本稿においては,こうした点を踏まえつつ,山梨県における鎌倉前期彫刻について考察してゆきたい。始めに甲斐源氏についてみてゆくと,甲斐源氏はその祖を源頼義の子義光であるとしているが,実際に甲斐に土着し,その直接の祖となったのはその子義清である。義清は,大治五年(1130)頃その子清光と共に常陸国より甲斐に配流されたとされる。清光には多くの男子があり,彼らに国内要地を支配させることにより,甲斐源氏は十二世紀末頃までには,甲府盆地の西,中部一帯を制していたようである。治承四年(1180)八月,甲斐源氏武田信義,安田義定等は,源頼朝の挙兵に応じて兵を挙げ,以後源平合戦を通じて常に大きな役割を果たし,幕府草創期においては,安田義定が遠江守,その子義資が越後守,加賀美遠光が信濃守に任じられるなど源氏一族として高位にあった。しかし,幕府が安定するにつれ,こうした甲斐源氏の勢力を恐れた頼朝により,甲斐源氏は,その総領とされる武田信義を始めとして次々と滅ぼされてゆき,最終的-12 -
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