鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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1900年に上梓した時,その目指すところは全ての学問の土台となるような論理的基礎いう活動」を描いた画家,対象が「われわれの眼前に立ち現れ,形をなしつつある」姿を描写する画家,平易に言ってしまえば,外観ではなく,ものを見るという知覚体験を記述した画家,であった。だか,現象学との類似性は,さらにキュビスムにも見いだせる,とクラインは続ける。果物籠の周りをめぐるキュビストたちの描写=記述の方法とは,まさにフッサールが唱えた事象をその知覚され得ない核に付された「輪郭(Abshattungen)」(この語は現象学では「射影」と通常訳されている)をひたすら記述しようとする方法と同一地平上にあるのだ,と論じる。この部分の主張は,おそらくメルロ=ポンティが,セザンヌの一種の幾重にも重なる複数の輪郭線の描写の指摘から示唆を受けたものであろう。クラインはキュビスムに続けてさらにカンディンスキーの『芸術における精神的なもの』を俎上にあげ,現象学的に解釈する。フッサールが『論理学研究』の第1巻を付けであった。「現象学は,その初期の段階においては,抽象的な物理学の証拠以上に拘束力のある証拠にしたかって,方法論的に世界を記述するシステムの草稿として現れた。」これがカンディンスキーの理論とつながるとクラインは言う。つまり,『芸術における精神的なもの』の中でのカンディンスキーの三角形やら黄色やらをめぐる議論を引用して,そこにはフッサールと同じような根源的システムないし普遍文法への探求が伺われると論じているのである。クラインの議論は,さらにその後の20世紀美術の発展へと続いていくが,ここではあとの議論の要約はおくとして,カンディンスキーの『芸術における精神的なもの』での主張と現象学との類似を今少し検証してみたい。カンディンスキーは同書の「色彩の作用」の章の中で,色彩は「物理的作用」と「心的作用」の2段階の作用を持つと言っている。そして「心的作用」の説明において,視覚と味覚や聴覚との間の共感覚を当時の心理学などを用いて論じ,色彩が持つ本質的な原理を明らかにしようとする。ここでカンディンスキーが論じるのは,色彩の,意識への立ち現れである。ちなみにメルロ=ポンティも「根元的な知覚においては,触覚と視覚の区別は知られていない」と主張している。フッサールは現象学の説明において,より正確に言えばその本質に関する理論において,知覚の分野でこれを説明しようとし,しばしば認識の対象として色彩を例に用-202-

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