いている。それはジャン=フランソワ・リオタールによる要約を借りれば次のようになる。「われわれが,《壁が黄色である》と言うとき,この判断のなかには本質が含まれているだろうか?また,たとえば,色は,それが《拡がって》いるその表面から切りはなして,把握することかできるであろうか?それはできない。なぜなら色は,それが与えられている空間からきりはなしては,考えられないだろうからである。もしわれわれが想像の上で,色という対象を《変容》させ,色から《拡がりをもつ》というその述語を取り去るならば,われわれは色という対象そのものの可能性を,消去することになる。われわれは不可能の意識に到達する。この意識が,色の本質をあらわにする。」(注7)フッサールによれば,ある対象となる「色」の本質は,それを想像上さまざまに「変容」させていくことによって,あらわとなる。言い換えると,本質とは「変容」を通じて同一のままにとどまるものによって構成されている,ということになる。現象学では,本質を看取することを前述の「本質直感」という概念でまとめているが,これは要するに,本質は定義されたり証示されたりするのではなく,それが意識に与えられている,その与えられ方を看取することによってのみ得られるということである。ここでカンディンスキーに戻ると,『芸術における精神的なもの』の「理論」の章において,カンディンスキーはまさに,このような「変容」をさまざまに行っている。つまり「赤」という色彩を,空,花,衣服,顔,馬,樹木などと次々に結びつけ,それがどのように意識に与えられてくるかを検討しているのである。そして,このような「変容」の例をさまぎまに挙げ連ねることによって,カンディンスキーが示そうとしたものは,色彩の持つ「心的作用」の看取へと読者(観者)を導くことにあり,それを通して色彩の本質を把握することである。このようにみるとカンディンスキーの議論は「本質直感」的な主張と言うことができる。クラインが20世紀美術全体の動向と現象学とを結びつけて論じているのに対し,ドイツ表現主義に限定して現象学とのつながりを考察したのが,フェルディナント・フェルマンの『現象学と表現主義』である(注8)。と言っても,フェルマンの議論は文学が中心で,絵画における表現主義運動とのつながりについてはほとんど触れることがない。この著書の中でフェルマンが試みているのは,クラインの逆のことと言ってもよさそうなもので,フッサールの思想の展開を同時代の表現主義運動の展開に即し-203-
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