しめようとするものであった。そういった意味で,この本はまさに自らの作品を「正当化」し,マーケティングするために書かれていると言える。そして,彼らの作品をどのように見ればいいのかという方法論は,テクストに書かれた主張のみによって伝達されているわけではない。『年鑑』自体を一つの全体として,構成や,図版の配置と構造,文章のレトリックなどが巧妙に駆使されている。このような「作品の見方」が最も明瞭に伝えられているのは,当然ながら,掲載された図版によってである。だが,それらの図版を読者はどう見ればよいのか。カンディンスキーは「形態の問題」の中で次のように書いている。「もし読者がしばらくの間自分自身の欲望,考え,感情をぬぐい去ることができ,この本の頁をめくりながら,礼拝画からドローネーの作品へ,セザンヌの作品からロシアの民族芸術へ,仮面からピカソヘ,ガラス絵からクービンヘ,などなどと赴くことができるならば,その読者の魂は,多くの反響(ヴァイブレーション)を経験し,芸術の領域に入ることができるだろう」(注10)。『青騎士年鑑』には,様々な時代と地域の芸術作品の図版が渾然となって紹介されているが,特徴的なことに,それは見開き両ページのそれぞれに比較対照できるような形式で掲載されている。この2つの作品の並置と言う方法が,非常に重要な戦略の一つであったことは,『年鑑』の中にマルクが「二枚の絵」という一文を寄稿し,この方法の重要性を主張していることからもよくわかる。そして,一見何の共通性もないように見える二つの作品の間に,何らかの共通点を発見することこそが,読者に委ねられている営みで,これこそが図版として掲載されている作品を真に理解する唯一の方法として提示されているのである。この共通性がないかのように見える作品たちの間に類縁性を探し出させるという方法を,さしあたり「隠喩的操作」と名付けておきたい。この「隠喩的操作」とは,いわば『青騎士年鑑』全編を通じて貰かれた修辞法で,テクストと図版の関係,あるいはテクストの構造の中にも見いだすことができる(注11)。そして,このような修辞的な構造こそが,『青騎士年鑑』と現象学との類縁性をも明らかにしてくれる。伝統的な実証主義と合理主義を退け,定義を先行させる方法という叙述の様式を拒否したフッサールもまた,隠喩的な表現様式を偏愛し,かつまた,それを対象へ近づ〈ための特権的な道だとして推奨している。そして,本質は,「変容」を通じて別物に見えてしまうもの間の類的同一性を発見することによって看取することができるのだ-205-
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