鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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と主張している。二作品を並置して「隠喩的操作」を加えることによって青騎士の画家たちが目指していたのも,類縁性の発見による本質の看取であった。それぞれの作品にまつわりついている様々なものを拭い去ることによってのみ,初めて両者の隠喩的な関係(カンディンスキーとマルクの言葉で言えば「内的類縁関係」)が立ち現れてくるのだと論じているのである。カンディンスキーの文章に戻ると,彼は読者に何よりもまず,自分自身の欲望,考え,感情を捨て去ることを要求している。これは,偏見を持たずに見てほしい,という単純な願いともいえるのだが,フッサールの「現象学的還元」の最初の一歩とは,まさにこのようなあらゆるドクサ(臆見)やそれによる確信を取り払う(「エポケー」する)ことであった。当時ミュンヘンに住み,青騎士の画家たちと交流のあったクレーにおいても,「現象学的還元」と同一な主張を見いだせる。そして,彼はまさに同じ「還元」という言葉を用いているのである(注12)。しかしながら,青騎士とフッサールの現象学との親縁性は,単に「思考形態」あるいは認識論上の一致にとどまるのであろうか。直接的ないし間接的な接触を想定できないのであろうか。その考察のためには,1910年代初頭の青騎士が生まれつつあったミュンヘンでの,その青騎士の画家たちをも巻き込んだ美学的な議論の姿を描き出さなければならないだろう。当時のミュンヘンの美学界に君臨していたのはテオドール・リップスで,彼はまたフッサールの親しい友人でもあった。リップスは1904年にフッサールをミュンヘンに招いている。そのリップスの弟子たちは,フッサールの『論理学研究」第1巻の「プロレゴメナ」に注目し,フッサールとの交流を深めていった。その弟子たちの中にはミュンヘン現象学派と後に呼ばれるグループの代表格であったアレクサンダー・プフェンダーらが含まれ,またそのグループの一員モーリッツ・ガイガーは現象学的美学を創始することになる。つまり,フッサールの理論は,当時まだ彼の現象学に関する著作が少なかったにもかかわらず,ミュンヘンでの美学的な議論では活発に対象にされており,後にミュンヘンは現象学的哲学のもう一つの中心地となっていたのである。ヴォリンガーもミュンヘン大学で美術史を学び,「感情移入」論の議論からもわかるとおり,リップスから美学に関して多くのことを学んでいる。前述したようにドイツの美術史家ブルガーは,フッサールの理論を作品解釈に適用した最も早い人物の一人であるが,彼もミュンヘン大学で美術史を講じていた。そし-206-

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