⑰ 中国における薬師造像に関する基礎的研究2.『薬師如来本願経』一巻隋・大業十一年(615)達摩笈多訳3.『薬師瑠璃光如来本願功徳経』一巻唐・永徽元年(650)玄装訳4.『薬師瑠璃光七仏本願功徳経』二巻唐・神竜三年(707)義浄訳研究者:女子美術大学助教授稲木吉一薬師造像と薬師経典をめぐる問題点ー中国における薬師造像の実態を探る上に,まずは信仰の根幹をなす経典の漢訳時期や内容等の把握が必要であろう。一般に漢訳薬師経典としては,次の4訳が知られている。1.『灌頂抜除過罪生死得度経』一巻東晋・吊戸梨密多羅(317-323年)訳このうち薬師信仰の出発点ともいうべき第1訳に関しては異説がある。本経は12部の小経を合成してなる『灌頂経』十二巻に収められるが,早く僧祐(445-518)の「出三蔵記集』は,本経を除く『灌頂経』の11経を失訳とし,本経のみ疑偽経に数えて大明元年(457)に慧簡が抄撰したとする。その後,開皇十七年(597)撰『歴代三宝紀』は同じく慧簡訳としながらも真経と見なし,『灌頂経』九巻を吊戸梨密多羅の訳としている。そして開元十八年(730)撰述の『開元釈経録』に至り,本経を含め『灌頂経』はすべて吊戸梨密多羅の訳とされ,今日に及んでいる。よって現行の吊戸梨密多羅訳説の信憑性に疑問を呈し,慧簡訳説の正当性を主張する見方が根強くある。これに対し,訳者の問題はともかくも東晋時代の翻訳に擬したいとの小野玄妙氏の意見等もあり(注1)'本経をめぐる訳者ひいては訳出時期の問題はなお未解決な状況にある。小野氏は薬師経典が西域地方で成立した可能性も示唆され,近年では松木裕美氏が「西域で成立した薬師経典が東晋の頃翻訳され,『灌頂経』十二巻の中に入ってゆき,一方,慧簡も劉宋の孝武帝,大明元年に西域経典に基づき翻訳,抄出したのであろう」と推測されている(注2)。ちなみに第2訳の『薬師如来本願経』序文で達摩笈多は自分以前の翻訳者として慧簡の名を挙げ,吊戸梨密多羅には何ら言及していない。このことから吊戸梨密多羅による訳経の事実そのものが疑わしいようにも思えてくる。達摩笈多は慧簡の訳について,「已會訳出在世流行」と当時の流行の様子を伝えると共に「梵宋不融,文辞雑鞣,致令転読之輩多生疑惑」と,その翻訳内容に不備があるとも述べている。-209-
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