なお第1訳から第3訳の玄柴訳『薬師瑠璃光如来本願功徳経』までは,すべて一巻本で同本異訳と見られているが,玄装訳では,時代の要求に適応しようとしてか,これまでよりも密教性を帯びているとされる。薬師浄土変相図に見られる九横死,十二大願が多くこの経文を付していることは,その流行の一端を窺わせるものと言える。これに対し第4訳の義浄訳『薬師瑠璃光七仏本願功徳経』は,巻数も二巻とこれまでと異なり,内容も下巻では他と共通する部分もあるものの,大いに違いが見受けられる。その主な点は,第2,3訳には続命法を修するにあたって七躯の薬師像すなわち七仏薬師像を造立すべきことを説くが,義浄訳に至って初めて七躯それぞれの尊名と浄土名,大願,さらには薬師如来や菩薩の神呪等について述べることにある。そのため七仏薬師信仰の依拠経典とされるが,前2訳にも七仏薬師の造立は説かれるので,後述する敦燈第220窟の例が示すように,必ずしも本経以前に七仏薬師像が存在しなかったことにはならない。ともあれ,中国における薬師経典の訳経経過からは少なくとも南北朝時代,五世紀後半以降ある程度の薬師信仰の隆まりが窺え,このことと符合するかのように,仏像,金石文等の遺品の上にも南北朝,北魏時代頃より薬師造像の痕跡を認めることができる。しかしそれ以前については遺品も確認できないことから,漢訳薬師経典の初訳が東晋頃にまで遡れるかどうかは甚だ疑問とせざるを得ない。ー遺品に見る薬師図像の問題点ー薬師造像の現在確認されている最古の例としては,北魏時代の雲岡石窟第11洞の小寵に「薬師瑠璃光佛」の文字が刻まれた禅定姿の坐仏があり(京都大学人文科学研究所『雲岡石窟』),龍門石窟古陽洞にも孝晶元年(525)の年紀をもつ薬師仏造像記が知られている。ただ薬師造像が隆盛を見るのは,第2,3, 4訳が登場した隋,唐時代を迎えてからで,例えば龍門石窟において銘文から薬師と確認されるものは都合15体(紀年を有するもの3体,無紀年のもの12体)を数えることができる(注3)。しかし釈迦や弥勒,あるいは阿弥陀仏(無量寿仏)などと比較すれば,その数はあまりに少ない。薬師図像の問題については,これまでの指摘どおり,比較的遺品に恵まれた敦煙莫高窟の壁画群を主要な検討対象とするのが有効な方法と考えられる。よって敦煙画に見られる薬師経変および薬師仏の形像等からそれらの特徴的な図像について抽出を試-210-
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