3.甲斐国における鎌倉前期作例には信義の子信光と遠光の子長清が残り,承久の乱においては共に東山道大将軍となって西征に参加している。一方,甲斐国における甲斐源氏一族の状況をみてゆくと,藤原末期から鎌倉前期においては,おおよそ甲府盆地北西部に拠った武田氏,笛吹川上流域一帯に拠った安田氏,盆地西南部に拠った加賀美氏の三つがその主要な勢力であり,彼らは次第に古代以来の在庁官人三枝氏を脅かしつつ,国の中心部である八代郡,山梨郡に進出していった。しかし,このような甲斐源氏をこの期の中心的な勢力とする見方に対し,近年,修正を求める見解が出されている(注1)。それらによると,甲斐源氏は強大な勢力を持つものの,それは圧倒的なものではなく,盆地東部から八代,山梨郡の国街領を始め一宮の神官としての所領を押さえた三枝氏はなお大きな力を持ち,また,加藤氏など有力な御家人も国内各地に所領を持ち甲斐源氏に拮抗していたとされる。三枝氏については,『吾妻鏡』を始めとするこの期の史料に殆どその姿をみせず,その動静について明らかになることは,まことに少ないか,氏寺大善寺に伝わる『大善寺文書』によれば,同寺は早くから幕府の庇護を受けていたようにみえ,三枝氏も幕府と何らかの関わりを持ち続けていたものと思われるのである。く構造〉ヒノキ材。寄木造,彫眼,彩色。〈作風・作者〉本仁王像は,全体的には藤原期仁王像に通じる大らかな雰囲気が色濃く,それは主に,四角<扁平で筋肉の動きを誇張しない面貌の表現や,類型的な胸の筋肉表現,大振で形式的整斉を主とした衣文を刻んで,重々しく垂下する拮の表現によると思われる。しかし,一方で肩から腕にかけてと,両脚,特にめくれ上がった裳裾により露わになった呼形のそれは,隆々と盛り上がる力強い筋肉の動きを特に強調すると共に,写実的に表わしており,穏やかに全体をまとめる傾向が強く,また末期には特に脚の筋肉表現など文様的になっていった藤原期仁王像から一歩を踏みだすものとなっている。また形式面においても,阿形像は措に藤原期仁王像に特徴的な縄状の腰帯をつけず,呼形では膝上にめくれ上がる初の形式を採用し,他にも新たな図像の採用と考え(1)塩山市・放光寺仁王像(重文)像高阿形264.0cm, P牛形263.0cm -13-
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