6体の各頭上に十二支の獣面を描いた十二神将が表されている。この図は,十二支獣に登場するものである。仏伝といういわば物語の絵画化であるため持物である鉢も物語の進行に必要な小道具として描かれたに過ぎないのではないか。はたして,これと他の変相図や単独あるいは三尊像として描かれた,いわば礼拝の対象としての薬師像と同列に見なして良いのだろうか,疑問を抱かざるを得ない。また第217窟の釈迦はあくまで鉢を手にしており,薬師像に見られるガラス様の透明感のある鉢状の持物,すなわち宝器たる薬器を表した場合とは明らかに異なる。ゆえに独諄や三尊像の場合,少なくとも持物がどのように描かれているか,例えばガラス様のものかどうかをよく検討した上で同定作業を行う必要があるように思われる。また左手の薬器のみならず,右手に錫杖を執る薬師像が,敦煙画における浄土変相図では五代以降,独尊像では盛唐頃からたびたび登場する。この姿については経典による裏付けがなく,その図像的典拠は不明とせざるを得ない。我が国でも『覚禅抄』に「古図也,心覚云唐本持鉢錫杖」という書き入れと共にこの姿の薬師図像が掲げられているが,中国に比して流行した形跡はない。ただ中国において鉢(薬器)と錫杖を執る如来像は薬師特有の図像として定型化したといっても過言ではないが,これも後述の第220窟の図像解釈に関わることであり,その出現時期が問題となる。これについては敦煤画以外の例として,大村西崖『支那美術史彫塑篇』第834図に掲載された礁仏が注目される。同書では地蔵とするが,浅井和春氏は,如来形であることから薬師と見て,年代的には初唐から盛唐にかけての作例と解されている(注7)。多少幅のある年代設定だが,単純な背景の図様から初唐にも遡り得ると見られたのであろう。筆者もこれを支持し,持鉢.錫杖型の薬師像が盛唐以前に成立していた可能性を想定しておきたい(注8)。次にbに関して,薬師経典に薬師経の受持者を衛護すると説かれる十二神将の役割からすれば,甲胄に身を包む姿に表されるのはむしろ納得がゆく。これらは浄土図中の舞楽会の下方に12体まとめて配置されるのが一般的であるが,第192窟のように8体しか描かれない場合もある。また松本栄ー氏が紹介されたように,ルコックがベゼクリクより将来した薬師変相図(五代)には,文官服を着けた執笏男像6体と盛装女像を戴く十二神将の遺例として重要である。またCについては,阿弥陀浄土変相図における阿閤世・章提希の故事,十六観のように十二大願と九横死は薬師浄土変相図の固有の画題としてその外縁部に描かれる。すべてを備えるものもあれば,一部を描くも-213-
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