鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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1985年)では,蛇を戴く像のみ挙げて八部衆と紹介している。松原説もこれに同調したものは斑点があることから鹿に当たり,敦煽画に散見する鹿を標織とする八部衆の一つと見なして,八部衆説を主張された。実のところ中国側でも見方が分かれ,第220窟を七仏薬師経変と見なす立場から十二神将と説明したものが多い中で,敦煽研究院も編集に加わった『中国美術全集絵画編15敦燈壁画下』(上海人民美術出版杜たものと解されるが,図像解析はともすれば主観に陥りやすく,この場合もそうした一面を否定できない。もはや実見あるいは写真図版等による観察から確証を得るのは困難であり,動物の比定作業は限界に来ていると言わざるを得ない。少なくとも実見では12体の神将像を確認し得たに過ぎないが,仮にこれらを八部衆と見なした場合,この12という数をどう理解するかが問われなくてはなるまい。十二神将の場合は8体のみ描いたものもあるにせよ,そのほとんどが12体で表されていることは,本図の神将像を十二神将と見なす根拠としてさほど乏しいとも思われず,ここではあくまで十二神将像の可能性を強く指摘しておきたい。なお左右に分かれた十二神将像の上方に,それぞれ赤身(向かって右)と白身(左)の三面六臀の姿の像が描かれている。郁氏はこれを阿修羅像と説明されたが,何故か松原氏は何も触れておられない。しかし阿修羅像が,はたして同一画面上に2体対で描かれることがあり得るのかは疑問である。確かに三面六腎で2本の手を上方に向かって差し上げる像容は阿修羅の姿を房髯とさせるが,多面多腎像が対で表されている例として,時代は遡るが例えば敦煙第285窟西壁(西魏)の摩酪首羅天と那羅延天の場合もあり,今後こうした像も念頭に入れて比定作業を行う必要があろうかと思われる。また本図の平台中央の燈架および左右の円輪状の燈明台は,郁氏の指摘のごとく薬師経変と見る上に見過ごせない存在である。燈架の形状は四角く経典の説く内容と異なるが,隋代の変相図同様,燈架,燈明台は薬師図像としての有力な証となろう。さらに本図を薬師変相図と見なす理由として,ここではとくにその描かれている場所の問題を挙げておきたい。敦煙莫高窟では阿弥陀浄土変相図が南壁に描かれるのに対し,すでに松本氏も指摘されたように薬師変相図はほとんどすべて北壁に描かれ,多くは両者が対峙しているケースが見受けられる。第220窟の場合も,事実南壁一面には同時代の阿弥陀浄土変相図が描かれており,阿弥陀と薬師が相対するという敦煙石窟の定型化した壁面構成のもとに作成されたものと理解されるのである。以上,敦煙第220窟について,今回の報告では七仏薬師変相図説を追認した結果とな_215-

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