が始まる。60年代後半には宇部市常盤公園での「現代日本彫刻展」と神戸須磨離宮公園での「現代彫刻展」,現在まで続く二つの大きな野外彫刻展がスタートするのであるが,この間はいわば日本における屋外作品の黎明期と見なすことができるだろう。宇部と須磨,双方の野外展に委員として関わった土方定ーはその開催意義について,それぞれ「彫刻の社会性を回復」「彫刻的,社会的機能を示すことに期待」と述べている。一方これらを主導する行政の側から聞かれるのは「町を彫刻で飾る」「園内を彫刻芸術で飾る」という言葉である(注3)。美術館やギャラリーの場合その空間を彫刻で「飾る」という思考はまず考えられず,野外美術作品ならではの見方がここに現れていると言えよう。また双方とも招待作家の作品を展示するという形式をとることから,作家よりも主催者の意向が強い印象を受ける。そのため美術の側から杜会に働きかけるというよりも,いわば町づくりの一つの手段として杜会の中に彫刻を順応させるという意味合いの方が強かったと考えられる。「芸術のための芸術」といった類は疎んじられ,まず第一に周囲の環境との調和が求められたとしても不思議ではない。ただ,こうした展覧会によって屋外が美術作品の場となりえることが公に示され,広い空間を舞台とすることでかつてない表現や素材の使用が生み出されたことは確かである。一方50年代から60年代の間には上記のような行政主体の野外彫刻展だけでなく,いくつかの前衛的な試みも行われた。1955,56年に芦屋で行われた具体美術協会による野外展,1956,57, 62年に開催された九州派を中心とする野外展,1965年岐阜の「アンデパンダン・アート・フェスティバル1965」等である。これらの展覧会では,松林や路上,砂浜,河原など従来からすれば考えられない場所に会場が設けられており,出品された作品自体もこれまでの彫刻の範疇を逸脱している。また作家自らが展覧会を企画し運営している点でも共通している。行政主体の野外彫刻展が作家を「参加させる」ものであるのに対し自ら進んで「参加する」これらの場合には,作家の意図が直接作品に反映されているといってよい。彼らは何よりもその場所で何を表現しうるかに全精力を注いでいたように考えられる。イヴェント的要素が強かったためか,芦屋の野外展では夕涼みがてらにやってきた人たちで遅くまでにぎわったという。生活の延長線上で作家も鑑賞者も自然に美術に向き合う状況が生まれていたと予想される。では作家をこのような行動に駆り立てたものは何だったのか。の作家たちが表現の可能性と限界に挑んだ。「読売アンデパンダン展」はそれが最も顕1950年代後半から60年代にかけて,日本では美術という枠組みの拡大を求めて多く--218-
元のページ ../index.html#227