鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
228/590

著に示された表現の実験場となり,参加グループの一つ,ハイレッドセンターは美術館やギャラリーといった既存の展示スペースに飽き足ることなく,帝国ホテルの一室で「シェルター計画」,銀座の街頭で「首都圏清掃整理促進運動」(ともに1964年)と題したイヴェント等を行っている。関西を拠点とする具体美術協会は,単に屋外に活動の場を求めただけでなく,舞台を使用した美術展の開催(1957年〜)や展示スペース「グタイ・ピナコテカ」の開設(1962年)など,多岐にわたっていかに作品を提示するか,プレゼンテーションのあり方を問うていた。「これまでなかったもの]を求めて表現手段への挑戦が続く中で,それを見せる場も必然的に再考の対象となり揺さぶられざるを得なかったということか。新たな美術への志向が美術館やギャラリーといった既存の展示空間,美術制度の境界越えを可能にしたと考えられる。つまり初めから屋外に何らかの目的があったのではなく,表現を追求しているうちにこれまでとは異質な空間である屋外に身を置いていたということである。新しさを希求するあまり表現が昇華されず実質の伴わない作品が存在したことも確かではあるが,今日インスタレーションという言葉で言い表されるような仮設的な作品の萌芽と,その場の状況から作品を生み出していくという思考を屋外というフィールドに見出したことは評価されるだろう。またそこでは芸術と公共や社会,環境との関わり,仮設的な作品のあり方など屋外作品が今日抱える様々な問題を見てとることができる。展は影をひそめ,個人的な展覧会が頻繁に催されるようになる。70年の高松次郎アトリエ開放展や高山登の住むアパート周辺の空地を利用した「SPACETOTSUKA-70」を皮切りとし,71年には自宅にラテックスを撒く彦坂尚嘉の「フロア・イベント」が,庄司達,77年には榎忠が自宅で個展を開催した。また李馬換は1968年から70年にかけて,菅木志雄は「野展」と題して1970年より,いずれも野外に個人的に作品を設置するという試みを継続的に行っている。作家にとって切り離すことのできない,最も身近な空間が展示場所として意識され選択され始めたのである。「もの派」と呼ばれる作家たちが制作・創造行為を理念的に否定し,それまでの美術表現に疑問を投げかけた。美共闘REVOLUTION委員会は「もの派」の動きを批判的1970年代に入るとそれまで開催されていた作家の自主的な企画による大規模な野外73年には数人の作家のアトリエや自宅を結んで行われる「点展」が始まる。76年には1970年前後といえば,日本の現代美術史において一つの転換期にあたる。いわゆる-219-

元のページ  ../index.html#228

このブックを見る