TION委員会,1974年)といった手段をとりつつ,制作の復権を唱えその道を模索しに検証し,一年間美術館やギャラリーは使用しない(第一次美共闘REVOLUTION委員会,1971年),あるいは一年間制作・発表活動を中止する(第二次美共闘REVOLU-た。そこで自宅展が開催されたのには,表現の可能性から屋外へ飛び出した60年代とは異なる別のコンテクストが存在するのではないだろうか。大きな社会変革の波か押し寄せていたこの時期,「芸術のための芸術」という思想はもはや効力を失っていた。芸術の自律性を否定し杜会的な立場から美術を捉えようとする動きのなかで,作家は美術とは何か,制作することの意味を根本的に問い始めたと考えられる。本米,作家の自宅やアトリエとは制作現場であり,生活空間でもある。展覧会目的でその場に作品か示されるならば,作品と展示空間とは無二の関係を結ぶと共に,作家のごく個人的な空間に鑑賞者が踏み込むことになる。「非公開」と言い表される李や菅の作品とあわせ,公共性を追求してきたそれまでの屋外彫刻,美術一般に対して,逆行するかたちである。作家が美術そのもののあり方を問う全くプライベートなその場所に鑑賞者は対峙するのである。その場にしか存在し得ない,その場から生まれる作品か初めて世に示されたかつての前衛的な野外展以上に,私達は作品が生まれでる場所,作品と状況とが一体化しているその場所で,美術館やギャラリーの存在によって支えられてきた「制度」に関心を向けることになるだろう。既存の展示空間においていかに作品の自律性が作り上げられてきたか,近代以前にそうであったであろう美術と人間との個人的な結びつきとはいかなるものかについてである。屋外作品を研究する際私にとって最も重要なのは,美術館でも画廊でもない場所をなぜ美術か欲することになったのかということである。作家のアトリエ・自宅展は必ずしも戸外で催されたのではないが,この問題と密接に関わっており,のちに見られる杜会や都市空間のなかでの作家の個人的な営為に繋がっていくように思われる。いわば屋外作品の展開形の一つの出発点と見なすことができるだろう。さて,この間60年代に始まった宇部・須磨の野外彫刻展は公募作品を受け入れるなど徐々に革新を遂げつつ展開していった。1969年には彫刻の森美術館も開館し,それぞれが野外展を開催することで,野外彫刻の一つの時代が築き上げられたと言ってもよい。特に須磨の場合毎回「光・風・水」「昼と夜」「都市環境のなかの彫刻」といった場を意識したテーマが設定され,ある回には神戸市内の特定の場所に向けて制作にあたらせるなど,都市空間との関係が具体的に模索されている。無論実際に作品が設--220-
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