られる点もみえるなど,本仁王像は,藤原期仁王像から鎌倉期仁王像へと展開してゆく過度期に位置するのではないかと思われる。作者については,当寺蔵『当山檀興大願主淮肖記』に南京彫工浄朝が,鎌倉にあって南御堂及び諸寺の仏身を造った後,願主が刻ませたものであるとされる。この浄朝は成朝のことと思われるが,以上にみたように,本仁王像が鎌倉時代ごく初頭の造立とみられること,当寺願主安田義定が,草創期の幕府内で非常に高い,また特異な地位を保っていた事をみると,この所伝にあるような成朝作の可能性も充分考えられるように思われる。く伝来〉放光寺は,先に述べたように,幕府草創期に活躍した甲斐源氏の武将,安田義定により元暦元年(1184)に建立された。義定は,治承四年の挙兵後は遠江に進攻してここを根拠地とし,『吉記』等によれば舟永二年(1183)の木曽義仲入京時には,共に入京して京中支配の一員となり,遠江守に任ぜられるなどしたが,頼朝が支配権を強めるとその配下として落ち着き,源平合戦においては義経軍の副将格として,特に一谷合戦において活躍している。放光寺はこの一谷合戦が行われた元暦元年に建立され,現在草創時の造立とされる大日如来坐像以下の三像が残る。一方,同年十一月には鎌倉において勝長痔院の造営が始まり,同寺は翌年十月に御堂供養が行われている。先の『惟肖記』によれば,この後成朝が甲斐に来て本仁王像を制作したとされているのである。なお,嫡子義資と義定は建久四年と五年に相次いで頼朝に謀殺されている。〔図1,2〕く構造〉サクラ材,ー木造。行者像は割り矧いで内剖を施すが,二鬼像は内剖なし。彫眼,彩色。く作風・作者〉行者像は,開口し,両眼を吊り上げて大きく見開く相貌に迫るような迫力をみせ,一方長身の体謳にまつわるように着ける藤衣や衣の表現は自然で写実的であり,後代の同形像の多くにみられるような形式化した表現とは異なるものである。二鬼像も同じく生気撥剌とした趣をみせる。躍動するような筋肉表現や頭髪の勢いよく動きだすような表現はまさに初発性といったものを感じさせる。作者については史料がないが,(2) 中道町・円楽寺役行者及び二鬼像(県指定)像高83.0cm, 73.1cm, 66.1cm -14-
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