その作風から十二世紀末頃の康慶周辺の練達の南都系仏師とする見解が出されている(注2)。〈伝来〉円楽寺は,その草創については明らかではないが,古くから富士山修験の拠点となっていたようである。本像は,この円楽寺の兼帯する富士山二合目の役行者堂に祀られていたものである。本像造立の経緯については明らかではないが,武田信義,安田義定等が滅びた後,この地方一帯に力をもったと考えられる武田信光,或いはその周辺が南都より仏師を招いたのではないかとされている。〔図3,4〕(3) 勝沼町・大善寺日光・月光菩薩立像及び十二神将像(県指定)像高日光250.0cm,月光247.Ocm,十二神将145.9■132.5cm〈構造〉ヒノキ材。日光・月光像は寄木造,玉眼,漆箔。十二神将像は寄木造(二謳は一木造),玉眼,彩色。なお,ー木造の内の一艦は後代の補作である。〈作風・作者〉日光・月光像。華やかに結いあげられた高髯,天冠台にからまる髪束,両眼の間が狭く,頬の豊かに張った相貌,賑やかな衣の表現等,その作風には肥後定慶の作風に非常に近いものがある。ただ,像高250cm前後という巨像ゆえか,それらはいずれも穏やかに整えられ,衣文の表現にも整斉化の傾向が強い。体躯は,特に胸下から腰にかけて細身に表わされ,鞍馬寺像にみられたような痩身化の影響を受けているように思われる。十二神将像。全体に派手な動勢をみせず,穏やかで落ち着いた作風を表わす。頭髪や衣,甲胄の意匠等に変化をつけるが,全体の調和を乱す程のものではなく,鎌倉彫刻的な写実性を保ちながらも古典的な静誼さといったものが感じられる。本十二神将像について『甲斐国志』には毎像背中に記があったとし,午神のそれには「大善寺十二神将始,勧進僧厳海密乗房,仏師僧運慶三河公,筆師僧上実円勝房,嘉禄三年太才丁亥閏三月十五日始之」とあったとあり,また,未神の胎中には安貞二年の記があったとし,本像が,嘉禄三年(1227)から安貞二年(1228)にかけて造立されたことがわかる。作者については,運慶とするには作風上無理があるが,三河公というのは,『吾妻鏡』仁治元年九月七日条にみえる三河法橋をさすと思われる。-15 -
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