鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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く伝来〉大善寺は,先述のように,甲斐の古代以来の名族三枝氏の氏寺とされ,本尊薬師三尊像(重文)は東国における平安初期彫刻の名品として名高い。当寺は藤原後期頃には相当な規模の伽藍を有していたとみられるが,『大善寺文書』によれば一時衰退し,鎌倉期に入り再興されたようである。同文書中の嘉禄二年十一月三日付けの関東下知状写によれば,この頃大善寺修造のことがあり,勧進僧厳海が幕府に人夫の調達を求めている。これを先の『甲斐国志』の記述と合わせて考えると,この頃厳海を勧進僧として寺内に堂宇造営の事があり,同時に安置造像も新造されたのであろう。しかし,この堂は文永七年(1270)には焼失したようで,同文書暦応二年大善寺注進状案の文永七年炎上堂宇を記した条に「大善寺新仏丈六」と記される。ここに記された新仏丈六というのが,恐らく現日光・月光像の中尊にあたり,この時に堂と共に焼失したのだと思われる。現本堂(国宝)は,この後鎌倉幕府の多大な援助を得て徳治二年(1307)頃完成し,現在重文の薬師三尊像を祀る宮殿をはさみ日光・月光像及び十二神将像が安置される。なお,『吾妻鏡』文暦二年六月二十九日条に記される明王院供養にその名がみえる兵部卿阿闇梨親遍は,三枝氏の一流野呂氏と関係をもっており(注3)'大善寺と三枝氏はこの明王院と何らかの繋がりがあったようにも思われる。以上にみたように,この嘉禄・安貞年間の大善寺の造仏は,当時の最先端をゆく仏師の一人である定慶のエ房による丈六薬師三尊像と,三河公による等身の十二神将像の組合せという当時の甲斐の造仏の中でも質,量共に群を抜くものであったといえる。この大善寺の造仏は,それを支えた三枝氏,また三枝氏と幕府の関係について新たな問題を提示するように思われる。〔図5,6〕(4) 南部町・法雲庵聖観音坐像(県指定)像高59.5cm く構造〉ヒノキ材。一木割矧造。玉眼。漆箔。〈作風・作者〉本像は,近世末期に大きな修理を受け,矧ぎ付け材の殆どは後補であり,また彫り直された箇所も多い。しかし,頭体幹部は,ほぼ原容が保たれていると考えられており,特に,頭部の高髯や天冠台下のふっくらとした頭髪の表現,豊かな頬の張りをみ-16 -

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