せる面貌の表現には,前項の大善寺日光・月光像と同じく肥後定慶の作風に近いものが感じられる。く伝来〉本像の伝来は明らかではなく,また法雲庵も後世に開かれ,本像造立の経緯は不明である。この法雲庵のある南部町は,鎌倉初期,先に述べた加賀美遠光の三男光行が拠った地であり,光行は早くも文治五年には南部氏を名乗っている。『甲斐国志』等によれば,この光行の弟,光経,光俊は共に,三枝氏の重要な根拠地の一つ於曽に入り於曽氏となっている。加賀美遠光は,治承四年の挙兵時より,武田,安田両氏に較べて幕府寄りの姿勢を持ち,その為か頼朝に滅ぼされることはなかった。この光経,光俊の於曽入部がどのような状況のもとで行われたかは不明だが,いずれにせよ加賀美氏は三枝氏と関係を持ち,こうした関係を通じて,光行は,或いは,大善寺造像後の定慶一門の仏師に南部での造仏を依頼することがあったのかもしれない。〔図7〕(5) 御坂町・福光園寺吉祥天像及び二天像(重文)像高吉祥天像108.8cm,持国天像116.8cm,多聞天像118. 7cm く構造〉ヒノキ材。共に寄木造。吉祥天像は彫眼,二天像は玉眼。彩色。く作風・作者〉吉祥天像は,肩幅広く量感豊かな体躯にゆったりした衣をまとい堂々とした貫禄を表わす。太く結いあげられた讐ふっくらとした面貌,肩の幅で前方に屈腎する両腕,奈良末の古式に学んだとされる服制等もまた像の安定感を強めている。こうした中尊に較べれば,脇侍二天像は,量感を押さえまた穏やかに表わされる。吉祥天像の像内には墨書銘が記され,それによれば本像は良賢聖人を大勧進として,三枝氏一族を大檀越とし,大仏師蓮慶により,寛喜三年(1231)十月に造立されたとある。この大仏師蓮慶は嘉禄元年(1225)作の奈良吉野水分神社の伝若宮神像の作者とされており,同神社の一連の作例との関連が指摘されている(注4)。く伝来〉本三尊像は,その銘記に明らかなように寛喜三年三枝氏一族を檀越として造立されたものである。福光園寺は,古くは大野寺と称したが一時廃絶し,保元二年(1157)領主大野対馬守重包により再興されたと伝えられる。当寺と三枝氏との関係は明らか-17-
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