鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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ではないが,像背面に記された「左衛門尉藤原定隆」は当時の甲斐国司であり,当寺が,古代以来の官道が通る御坂峠の登り口近くに位置し,下れば当時の国街に至る国街及び三枝氏にとっては重要な位置にあったと考えられることなどから,三枝氏も,都から仏師を招くなどその造仏に力を入れたのであろう。〔図8〕く構造〉ヒノキ材。共に寄木造,玉眼,漆箔。く作風・作者〉中尊は,衣の着け方が複雑になり衣文も細かくなるなど,やや時代の下降を示す点もみられるが,丸く張り切った面貌は生気を感じさせ,適度な量感をみせる肉身も衣を通してその起伏をはっきりとみせ,鎌倉前期様式の余韻を伝える。脇侍像は,片膝をつき,それぞれ蓮台を捧げ,合掌する姿を穏やかにまとめている。本三尊像の作者は不詳だが,その作風からは,慶派の流れを汲む中央の仏師ではないかと思われる。く伝来〉九品寺は,時宗二祖真教上人を開基として草創されたとされるか,本三尊像の造立はそれを遡るものである。当寺のある御坂町成田地区は,古代の国街所在地でありその遺称を残す国街地区の北に位置し,その立地やまたその名称からも,当寺は藤原期の国街と何らかの関わりのあった寺院と関連があるのではないかと考えられている。前項の福光園寺の造像にみたように,十三世紀第二四半期においては,三枝氏と結んだ国街の勢力はまだ健在のようにもみえ,或いは,本三尊像の造立においてもそうした国街との関連が考えられるのではないかとも思われる。〔図9〕以上に,鎌倉前期における甲斐国の主要な造像を概観してきたのであるが,総じてその水準は非常に高いといえよう。また,成朝作の可能性のある放光寺仁王像,三河法橋作の大善寺十二神将像,中尊は伝わらないが,肥後定慶の工房の本格的な制作と思われる同寺日光・月光像など,鎌倉前期彫刻史の欠落部分を埋めるべき作例を多く含み,それらの様式的な解明は今後の課題となるだろう。また,これらの作者は,『吾妻鏡』に載せるこの期の鎌倉での造仏の作者と多く共通する。それは,はじめに述べ(6) 御坂町・九品寺阿弥陀三尊像(町指定)像高97. 1cm, 38. 6cm, 37. 3cm 4.おわりに-18-

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