ために,勢至を阿弥陀から隔てて,興福院本と同様に観音と一続きの雲の上に配しているのも北十萬本と異なる点である。では,六地蔵はどのような信仰を背景として来迎図に描かれたのであろうか。六地蔵が阿弥陀とともに来迎することを説いた経軌は見出しがたいが,六地蔵がそろって死者のもとに現われた説話が『今昔物語集』にあり注目される(注8)。その内容は,周防国の惟高が病死し冥途の道に迷っていたところ六地蔵にまみえて蘇生し,その後,それらの像を造り礼拝恭敬し,阿弥陀の宝号を唱え地蔵の本誓を念じて往生を遂げたというものである。そこには6体各々の印相と持物も記されていて,それらは吉祥寺本とよく一致する(注9)。この説話はこれらの印相と持物の六地蔵の救済により往生を得るという信仰の存在を示唆しており,こうした信仰を抱く者が,六地蔵の引導と阿弥陀の迎接を得て柩楽往生することを願って吉祥寺本を制作したと考えられる。勝願寺本は,北十萬本系統の形姿をなす阿弥陀三諄のほかに,二十五菩薩,持幡童で飾っていて,13世紀末から14世紀初頭にかけての作と考えられる。二十五菩薩を描く点は,立像系来迎図を中心として一般化した尊像構成に倣ったとみてよい(注10)。持幡童子は坐像系では他に法華寺蔵阿弥陀三腺及び童子像に1体が描かれるのみで,2体を描く作品には禅林寺蔵山越阿弥陀図,13世紀末から14世紀初めの立像系米迎図である福島県立博物館蔵阿弥陀二十五菩薩来迎図と東京国立博物館蔵阿弥陀聖衆来迎図がある。飛天は心蓮杜本にも見出せるが,立像系米迎図に描かれることが多く,鎌倉初期の清涼寺蔵迎接曼荼羅図をはじめ,光明寺蔵当麻曼荼羅縁起,福島県立博物館本などにみることができる。また,北+萬本の特徴である,縦方向の動きを強調した構図や風になびく蓮弁といった動的な表現を解消し,聖衆を広い景観の中に配して空間的な調和をはかっている。作者の意図は,北十萬本系統の三尊の形姿を受け継ぎながら,立像系来迎図にみられる尊像を加えて画面構成に鎌倉後期の流行をとりいれることにあったと解される。(4) 崇徳寺本崇徳寺蔵阿弥陀三諄来迎図〔図5〕は三尊と化仏を描いており,皆金色表現と巧緻な栽金の技法から,13世紀末から14世紀初頭の作と考えられる(注11)。崇徳寺本とほほ‘同図様の作品に個人蔵本と金戒光明寺本があり,個人蔵本は崇徳寺本と相前後する時期の作とみなされ,金戒光明寺本は南北朝から室町時代の作とされる(注12)。子2体,飛天2体を描いた作品である。肉身に金泥を塗り,淡紅地の着衣を戟金文様-261-
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