る聖真子の本地仏が阿弥陀である点を考慮する必要があろう。室町時代に叡山僧と日吉社祀官によって書写された『耀天記』の一節に,13世紀中頃の成立と考えられる「山王事」が収められており,それによると,聖真子は阿弥陀が九品の浄刹へ迎えるために垂迩した神であるという。そして,山王に詣る者は身分の高低にかかわらず九品往生の機根を調えることができるといい,山王の清浄な神前に接し,御鉢に近つ・くことが往生浄士の確かな因となると説かれている(注21)。このように比叡山においては山王崇拝を通じて極楽往生を期す信仰が宣揚されていた。西教寺本はこうした信仰に基づいて制作されたと考えられ,山王信仰と結びついた天台系浄土信仰の一面を伝える希少な作品としても重要である。以上の検討を通じて確かめられたように,鎌倉時代の坐像系来迎図には東林院本と阿日寺本のごとく阿弥陀三尊の図様を継承した作品がみられる。そうした中で,とくに流布したのは阿弥陀が立掌半珈形をなす北十萬本と幽玄斎氏本の系統の作品であり,福岡市博物館本のように構図を踏襲しつつ尊像を付加した諸作例が生まれた。それらからの変容を示す例として,六地蔵信仰に基づき六地蔵を描いた吉祥寺本があり,勝願寺本のように立像系来迎図に一般的にみられる二十五菩薩,飛天,持幡童子を描き,当時の流行に即した画面構成をなすことも行われた。さらに,崇徳寺本では阿弥陀三尊の図様が種々の系統の図様を組み合わせることによって考案された。来迎の方向性に関しては,安楽律院本,西迎寺本など左下に降下する作品の系譜が確認でき,小童寺本では聖衆の飛来する動きが雄大な空間表現によって斬新に表わされている。西教寺本は古本の画面構成を受け継ぎながら迅速性を極度に強調しており,浄土信仰と山王信仰の融合を表明する点にも特色がみられた。鎌倉前期以降の坐像系米迎図の図様がこのように多様であるのは,作品が描かれる際に,前代のさまざまな図様が継承されるとともに,新たに改変が加えられたためである。多くの作品において,阿弥陀聖衆の図様を種々の先行作例から抽出して組み合わせること,立像系来迎図の画面構成をとりいれること,聖衆の動きや雲の描写に顕著な特色をもたせること,発願者の信仰内容を反映させることなどによって,新しい図様の創造が試みられている。それらの作風にはおのずから時代性が反映されるため,平安時代から鎌倉初期までの作品のような柔軟な尊像描写や豊麗な彩色美はもとより望みがたい。しかし,作者の創造的姿勢はなお継続している。鎌倉時代以降の来迎図-264-
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