—J.M.W.ターナーのく捕鯨〉作品を中心に一⑫ 博物学から絵画へ1840年のロイヤル・アカデミー展に出品された《奴隷船》(ボストン美術館,マサチ研究者:清泉女子大学非常勤講師荒川裕子ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーの芸術が持つ特質のひとつとして,その驚異的なまでの主題の多様性を挙げることができるだろう。実際,英国国内はもとより西ヨーロッパのほぼ全域を網羅するはどの膨大な地誌的風景画,また古典や聖書をはじめとする広範な文学的源泉に材を得た歴史画,さらにはトラファルガーの海戦や議事堂の大火災といった同時代の出来事を映し出した作品など,およそ60年に及ぶ長い画歴を通して,彼は倦むことなく新しいテーマ,新しい光景を求め続けたといってよい。その晩年に当たる1840年代には,こうした多彩な主題のレパートリーに,またひとつ新たな局面が加わることになった。ューセッツ)は,アフリカー西印度諸島を結ぶ大西洋貿易路の上で実際に起きた事件を土台としている(注1)。また1845年および46年の同展には,それぞれ2点ずつ,南海(もしくは北氷洋)における捕鯨を主題にした作品が出品された〔図1■ 4〕(注2)。つまり,これらの絵によってターナーは初めて,「旅の画家」としてすでに知悉していたヨーロッパ周辺の海を離れ,遠い未知の外洋へと一気に視野を広げたのである。彼の主題の上でこのような地理的拡大が起きた背景には,無論,何らかの契機があったことは容易に推察されよう。《奴隷船》とく捕鯨〉主題の作品は,いずれも発想のある部分までを,1839年に再版されたトマス・ビールの『抹香鯨の博物誌』に負っている(注3)。《奴隷船》における空と海の鮮やかな色彩表現は,ジョン・ゲイジも指摘するように,南洋の光景を描写したビールの文章に板めて近い(注4)。一方,4枚のく捕鯨〉作品のうちの3点は,各々のタイトルのあとに「ビールの『航海記』を見よ」と付され,うち2点には頁番号まで添えられている。T.S.R.ボースはこれを受けて,「(ビールの口絵に載せられている)W.J.リントンの挿絵〔図5〕の手引きがなければ,荒れ狂う波の中で展開する生々しい光景を描き出すことは難しかったろう」と言い添えている(注5)。しかしながら,その後より綿密な研究が重ねられた結果,ターナーのく捕鯨〉作品は必ずしもビールの記述を忠実に再現してはいないことが判明しただけでなく,描かれている舞-270-
元のページ ../index.html#279