鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
28/590

注たように,幕府草創期においては甲斐源氏は大きな勢力を持ち,源氏一族として幕府内において高位にあったこと,国内においても在庁三枝氏が幕府と繋がりを持ったことなど,政治的な原因が大きいのであるが,近年多く確認されつつあるように,この期の直前の藤原末期における当国の造像にもかなり優れたものがあり,恐らくその頃から当国の造仏の水準が上昇し,優れた作者に造仏を依頼し得る素地が出来ていた事にもよるのであろう。鎌倉におけるこの期の主要な造仏の殆どが滅びた現在,当国は鎌倉の当時の造仏を振り返る事の出来る殆ど唯一の地としてこの期の彫刻史中に特異な位置を占めるように思われるのである。(1) 網野善彦「甲斐国の荘園・公領と地頭・御家人」『国立歴史民俗博物館研究報告第二十五集』1990年。(2) 西川新次「中道町円楽寺の役行者像」植松又次先生頌痔記念論文集刊行会編『甲斐中世史と仏教美術』名著出版,1994年。(3) (注1)網野氏前掲論文。号,1983年。本稿図版中,〔図3,4, 8〕については,以下の論文より複写させていただいた。また,〔図5,6, 9〕は,若林賢明氏撮影のものを使用させていただいた。〔図3,4〕西)1|新次「中道町円楽寺の役行者像」〔図8〕鷲塚泰光「山梨県・福光園寺蔵の木造吉祥天及び二天像について」本研究遂行にあたり鹿島美術財団より助成を受けたことを謝し,またご指導を賜わりました西川新次先生に深く感謝いたします。(4) 鷲塚泰光「山梨県・福光園寺蔵の木造吉祥天及び二天像について」『仏教藝術』149-19 -

元のページ  ../index.html#28

このブックを見る