ことに鯨学(Cetology)-—ぺ憎i地-271-台そのものも,彼の著作で扱われているよりもっと南の極地近く,もしくは全く逆の北極海周辺である可能性も出てきた。本稿の筆者がこのたび行なった調査においても,例えばく捕鯨〉主題の油彩画とほぼ同時期に,おそらくはこれらの構想段階で制作されたと思われるスケッチ類も併せて検分してみると,先のビールの『航海記』は無論のこと,これまでに指摘されてきた幾つかの源泉のはかにも,ターナーの作品にイメージを供給しえたものがあったことが確認された(注6)。その具体的な内容については次章以下で検討するとして,ここで結論めいたことを先取りして述べるならば,18世紀末以来自然科学の探求が飛躍的に進んだのに伴い,その一翼を担う博物学探険に関する情報が著しく増大したことが,ターナーの眼を自ずと遠い外洋に向かわせたのであろうということである。とすれば同じことは,彼ばかりでなく同時代の他の画家たちにもまた起きていたに違いない。筆者はすでに別稿において,ターナーの《奴隷船》をめぐる視覚的・文学的源泉についての試論をまとめた(注7)。従ってここでは,彼のく捕鯨〉作品に焦点を絞り,それらに先行する出版物やその挿絵図版との比較・考察を通して,19世紀半ばに「外洋画]とも呼ぶべき新たな海景画のジャンルが誕生していった経緯の一端を明らかにしていく。近年,自然科学と美術との関係が盛んに論じられるようになったが,今回のささやかな研究もまた,この大きなテーマに向けてのひとつのアプローチとなることを期待したい(注8)。鯨の図像学で出版された(注9)。我々はともすればハブ船長と白鯨(モービー・ディック)との壮絶な死闘の場面のみに眼が行きがちであるが,実のところこの長大な物語の大半は,鯨の生態や分類から果ては捕鯨の社会的・精神的意義に至るまで,まさしく鯨の百科全書ともいうべき膨大な蘊蓄から成り立っている。刊行当時の評判は全く芳しいものではなかったとはいえ,このような本が生まれたこと自体,19世紀半ばに鯨のテーマが決して特殊なものではなかったことを証しているといえよう。だがそれ以上に興味深いのは,中ほどの55章と56章で,そ1851年10月,ハーマン・メルヴィルの『白鯨』が本国アメリカに先駆けてロンドンれぞれ「奇怪な鯨の絵について」「より誤謬の少ない鯨の絵•および真の捕鯨図についおそらく映画の印象も手伝ってエイ
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