て」と題して,古今の鯨の図像を渉猟し,科学的な正確さという観点からそれらに批評を加えている部分である。メルヴィルが取り上げた作例は,当然のことながら完全なものではないが,ターナーの〈捕鯨〉作品とほぼ同じ時代に流布していた鯨のイメージを知る上で,有用な手掛かりとなるのは間違いない。メルヴィルも挙げているように,ペルセウス神話の海の怪物やヨナを呑み込んだ聖書の「大いなる魚」をはじめ,鯨の図像は長く多様な歴史を持つ。しかし質・量ともに目覚ましい発展が見られるのは,17世紀前半にスピッツベルゲンを中心とするグリーンランド捕鯨が開始されてからである(注10)。この当時,捕鯨図制作で主導的な立場にあったのは,鯨産業においても,また海景画というジャンルにおいても優位を誇っていたオランダである。本物の鯨の姿は,ごく稀に岸辺に打ち上げられたもの〔図6参照〕以外には,一般の人々の眼に触れることはまずなかった。従って,生きた鯨についての情報は,専ら捕鯨船の乗組員が現地で(あるいは記憶に基づいて)描いたスケッチに頼るほかなかった。その結果,限られたイメージがを通して具体的な例を見てみよう。ロッテルダムの画家兼版画家ヘンドリク・コベルが1778年頃に描いた《捕鯨の光景》〔図7〕は,17世紀以来のヨーロッパの捕鯨図のひとつの典型を示している。広大な空を背景に,極めて精緻に描かれた船をはば水平に配するという,オランダ海景画の基本的な構図を踏襲しつつも,よく見るとそこここに,捕鯨に伴う一連の作業肪を剥いで母船に積み込む(左手中景)画面左下では北極熊に出喰わした人々がこれを仕留めようとし,また右手前景には氷のあいだを悠々と泳ぐ二頭のアザラシが見えている。このように,捕鯨活動の様々な局面や遠洋の珍しい風物を,さながら陳列棚の如くに一枚の画面の上に並べたてたものがひとつのパターンとすれば,その反対に,捕鯨の進行に沿って複数の場面に描き分けることも一般的に行なわれた。1720年頃に,シューウェルト・ファン・デル・ムーレンの原画を基にアムステルダムで制作されたエッチング・セットは,中でも最も完成度が高く,のちのち幾つもの版に転用されたものである。全16点からなる画面では,鯨の探索に始まり,捕獲〔図8Jや解体を経て,遂には氷の海で立往生し,ようやく脱出〔図9〕して帰港するまでが綴られている(加えて白熊をはじめ,先のコベルの作例とも共通するモティーフが随所に見出せること国や時代を越えて繰り返し利用されることになったのである。鯨を追いかけ(中央やや右),鈷を打ち込み(中央後方),脂が小さく挿入されている。のみならず,版画とその海賊版-272-
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