鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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にも注目されたい)。こうしたいわば「セットもの」の構成は,直ちにターナーのく捕鯨〉作品を思い起こさせるのではないだろうか。彼の4枚の画面でも,やはり鯨の追跡(《捕鯨船》〔以下,メトロポリタンの《捕鯨船》とする〕〔図1〕),捕獲(《捕鯨船》〔図2〕),解体(《万歳!捕鯨船エリバス号!もう一頭だ!》〔図3〕),鯨油の精製(《(鯨油を煮ている)捕鯨船が,氷の割れ目に閉じ込められ,抜け出そうとしている》〔図4〕)という一続きのプロセスが表されている(注11)。これらのうち少なくとも1845年の2点は,ターナーのパトロンのひとりで,南海の捕鯨産業に携わっていたエレイナン・ビックネルを意識して(ないしは彼の依頼を受けて)描かれたと考えられる(注12)。事実ビックネルは,最初のふたつのうちメトロポリタンの《捕鯨船》を購入したが,間もなく画面処理に対する不満を訴えて画家の手元に返却した。にもかかわらずターナーは,引き続きもう2点のく捕鯨〉作品を制作して翌年のロイヤル・アカデミー展に出品したのである。このような経緯から推しても,彼が当初からある程度連続した画面形式を構想していたのはほぼ間違いない。あとにも述べるように,個々の場面については,ターナーはおそらく幾つかの異なる源泉から想を得た。しかし4枚の絵を全体から眺めてみると,(上に挙げたムーレンの作例とは断定できないまでも)当時広く流布していた捕鯨版画の「セットもの」のいずれかが,最も早い段階で彼の霊感源となったことが推測できるのである。ところでメルヴィルは,前に触れた『白鯨』の56章で,同時代の博物誌を数点列挙した上で「……ビールのは抜群にいい」と語っている。ここで彼が指しているのは,実際にはビールの『抹香鯨の博物誌」の中に載せられている,ウィリアム・ジョン・ハギンズ(1781-1845)の版画〔図10〕を基にした挿絵である。西印度会社の杜貝から海景画家に転向したハギンズは,自らの航海体験に裏付けられた精密な描写で定評があった。ターナー自身,ビールの記述を主要な情報源とする傍らで,メトロポリタンの《捕鯨船》に関しては,ハギンズの作品のひとつから構図を借り受けてきたらしい(注13)。もっとも,鈷を打ち込まれて暴れ回る鯨は,ハギンズに限らず捕鯨図にしばしば見出せる一種のクリシェ的モティーフといってよい。それらの中でもとりわけ迫真的な表現で際立っているのは,メルヴィルも先のビールに続けて名前を挙げ,はるかに多くの頁を費やして称賛しているアンブロワーズ・ルイ・ガルヌレー(1783-1857)である。彼が1830年代半ばに制作した一連の捕鯨図は,たちまち各国で版を重ね,19せ紀を通じて最も有名なイメージとなった。ターナーがこれらを眼にしていたかどう-273-

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