っていた同名の船と結びつけ,他方ロバート•K.ウォーレスは,むしろ同じ船か183918世紀後半以来英国は,未知の世界に対する知識(およびそれが生み出す利潤の可かは今のところ不明だが,うねる波の合間で巨大な鯨が血しぶきを上げてのたうつさま〔図11参照〕は,彼の《捕鯨船》の躍動感に満ちた構図にかなり近いといえよう。いずれにしても,ターナーのく捕鯨〉作品の中で鯨そのものが占める割合は意外なほど小さく,実のところ4枚のカンヴァスのうち,この生き物の姿が明確に認められるのは僅か1点にすぎない(注14)。言い換えれば,鯨を取り巻く遠洋の風景の方に圧倒的な比重が置かれているのである。従って,彼の画面の形成により大きな,もしくはより直接的な寄与を果たした源泉を求めようとするならば,ここでもう少し視点を広げて捕鯨図以外のジャンルも眺めてみる必要があるだろう。極地の風景ターナーのく捕鯨〉作品のうち1845年の2点は,前出のビールの著作に比較的忠実に従っている。それに対して1846年の2点については,まずエリバス号と呼ばれる捕鯨船は実在しなかったこと,そしてもう一方の作品のみタイトルにビールヘの言及がないことから,画家の発想源をめぐって様々な議論が交わされてきた。バリー・ヴェニングはエリバス号という名前を手掛かりに,1845年5月以来北極地方の探険に向か年〜43年に南極方面で行なった科学的航海と関係があるとしている。いずれの推測がより妥当かはここでは問わないが,注目しておきたいのは,両者とも極地探険と捕鯨主題とをオーヴァーラップさせている点である(注15)。能性)を求めて,地球上の各地に科学的探険の船を送り出してきた。そうした航海の大きな目的のひとつは,南北の極地付近を通る新しい航路の開拓であった。このため少なからぬ数の船が,氷の障壁に行く手を阻まれたり,ひいては遭難の憂き目に会った。同じことは,鯨の過剰捕獲の結果,当時北極近くまで漁場を拡大せざるをえなかった捕鯨船についても当てはまった。先のヴェニングは,1830年代半ばに北板の氷に閉じ込められた二隻の捕鯨船を描いた,ジョン・ウォード(1798-1849)の《スワン号とイザベラ号》〔図12〕がターナーに大きな示唆を与えたと考えている。またウォーレスによれば,エリバス号が数週間にわたって南極の氷塊と格闘した様子が彼の画面に反映されているという(注16)。だが以下に例証するように,ターナーの創意を促す契機となりえた源泉ことに視党的なそれは,これら以外のところにも見出せる274-
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