鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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I 韓国における鮮展美術の評価韓国の美術史学研究でも近代期に関する研究の必要性は高まりつつあるが,まだ,充分な研究はおこなわれていないのが実状である。それには,そもそも,韓国の近代という時代が日本による植民地支配期に当るということが研究をすすめる上で難点のひとつだったといえる。韓国画壇の大家と呼ばれる画家たちは,そのほとんどが,この時代を生き,鮮展をとおして画家活動をはじめた人たちである。彼らは,自分たちの創作の母胎となった鮮展を‘良かった時代の懐かしい青春の舞台'として思い出すのがつねであった。たとえ,それが支配者によって作られたものだったとしても,韓国に近代美術と呼ぶにふさわしい作品群をのこした事実は評価してもらわなければならないというのが,彼らの主張だった。だれもが韓国近代美術の第一世代とみとめる鮮展の中心画家たちは,例外はあるが,大半が裕福な家に生まれ,新教育,なかでも美術教育を受けるという普通の人にはできない体験に恵まれた。とりわけ,日本へ留学した画家たちは,より近いところで西洋近代文明を目のあたりにし,まがりなりにも近代ブルジョアジーの個人主義と自由思想に接することができた。しかし,彼らが近代的芸術家になるためには理想と現実,つまり,西洋人の世界観と植民地の状況,西洋美術と伝統美術との狭間で葛藤しなければならなかったことをみのがしてはならない。結局のところ,彼らは植民地の現実も芸術もうけいれる順応主義になれていた。そして,鮮展の権威主義からもらった特権意識とアカデミズムを固めていた。鮮展はこのような性格をもったまま,植民地支配が終わったあと,大韓民国美術展覧会(国展)に受け継がれ,重要画家たちはそのまま国展の中心勢力になり韓国の現代美術をになう若い世代を育てる先生たちになった(注1)。韓国国内における植民地美術の評価の問題は,1945年に解放後,他の分野と一緒に議論の対象となったが,政局の混乱と6• 25戦争(朝鮮戦争)の激動期や,そのあとをつづく軍事独裁政権の下,きちんと整理されないまま,一方で,国展は回数を重ねていくにつれ,鮮展に匹敵する権威をもつ官展になっていたのである。公の場におけるこの問題の表面化は,1983年美術ジャーナリズムの方でおこった。美術雑誌「季刊美術」が植民地末期,すなわち,1930年代後半から1945年までの,ぃわゆる戦時期の日本のファシズム政策に協力した絵画作品を画家の実名とともに公開する,告発の記事を組んだのである。この記事は,「親日美術論争」と呼ばれる,激し-284-

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