II 鮮展の創設と運営ーアカデミズムヘの道い論争を引き起こした。そして,「絵はあくまでもFINEARTであって,政治や社会の生々しさとは切りはなして考えるべきである」という,画家たちの反発が,真っ向から衝突した。鮮展に参加した画家たちをみんな親日と断罪し,拒否した画家たちを民族主義者と評価するような見方はできない。多様な発表の場が与えられていなかった時代においてそのような区分はほとんど不可能に近く,無意味であろう。しかし,そのような芸術と芸術家が生まれた状況と制度は徹底的に検証するべきである。まず,鮮展がはじまった頃の韓国の状況を見ることにする。1919年3月1日韓国で礎を固めるために使っていた「武断統治」を緩和し,韓国語の新聞,雑誌の発行,学校の設立などを許可する「文化政治」にかえるという,統治政策上の転換を断行する。これは3• 1運動で思い知らされた韓国の独立運動勢力を弱める,懐柔策だった。そして,その根底には,3 • 1運動後に朝鮮総督となった斉藤実の文書のなかに述べられているとおり,朝鮮を日本に同化させようとする目的があった(注2)。ここで,美術における文化政策の目玉であった鮮展の創設も同じ政策方針から生まれたことが明らかになる。鮮展は総督府学務局が実務管轄部になり,日本の官展である帝国美術院展覧会を手本にしてつくられた。また,鮮展の創設には高木背水という一人の日本人画家が相当の役割を果たしている。高木は九州佐賀の旧鍋島藩主の一族で,黒田清輝と久米桂一郎がつくった白馬会洋画研究所で学んだのち,1903年標本技師としてはじめて朝鮮にきている。その後,アメリカとイギリスでの修学を経て,1925年からは京城(ソウル)にアトリエを構え,朝鮮美術界で活躍することになる。彼は1919年9月,当時朝鮮に住んでいた日本人美術家たちと「朝鮮洋画同志会」を結成する。さらに,この頃から東京へ足を運び,師であった黒田清輝をはじめとする各界の関係者たちと朝鮮に官立美術展をつくるための協議をしている(注3)。精成は,第1部が東洋画,第2部が西洋画彫刻,書で,一般および学生の応募作から入選作と1等から4等までを選んで授賞した。それに審査員の作品と総督府およびは3• 1運動という大規模な独立運動がおこる。以後,日本はそれまで植民地化の基第1回朝鮮美術展覧会は1922年6月1日から総督府商品陳列館で催された。展示の-285-
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