鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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日本文部省からの特別出品作が参考作品として加えられた。第1回展の参考作品のなかには,岡田三郎助,川合玉堂,土田麦倦,黒田清輝などの作品が見られる。鮮展の入選者数は同化政策を反映しているかのように,日本人と韓国人を合計して発表されたが,その内訳を見ると,第一回展の韓国人入選者は全入選作217点中53点,特に洋画部は57点中4点だった。このことは洋画の技法を習った韓国人がまだごく少数にすぎなかった鮮展初期の状況を物語っていると言えよう(注4)。鮮展の審壷委員は全開催期を通して全員が日本人だった。ただ,初期の鮮展では,東洋画部と書部の審査に何人かの伝統画家と政界の要人を参加させてはいる。しかし,そのなかの伝統画家とは,東洋画部では李道栄が日本人主審の下に副審として入っているだけで,書部では日・韓併合の時内閣総理大臣だった李完用を筆頭とする親日貴族たちが名を連ねているにすぎない。これは,まさに鮮展における政治的懐柔策としか言いようがないだろう。その証拠に,1928年の第7回展からは東洋画部における韓国人の審査参加という政治的配慮は削除されるし,書部に至っては1932年の11回展から部門自体が廃止されてしまう。入選制度の方は1926年の第5回展から1等から4等までを全部特選とする改編がおこなわれる。そして,1935年の第14回展からはこの特選を重ねた画家に無審査の特権を与える推薦作家制度がもうけられる。また,1937年の第16回展からはこの推薦作家の中からもさらに選びぬかれた人たちに参与作家の称号が与えられた。この参与作家には審査参与というかたちで日本人審査委員の補助が許容された。鮮展が1944年23回展を最終回として幕を閉じるまで,推薦作家になったのは,東洋画部では,李象範,李栄一,金殷稿,金基稗,西洋画部では,金鐘秦,李仁星,金景昇,沈亨求の9人,そのなかで参与作家は,李象範,金殷稿,沈亨求の3人である。大規模の官展として絶大な権威を持ちつづけた鮮展の推薦作家と参与作家の肩書きは,植民地の画家にとっては最高の名誉であり,成功の証であったのである。鮮展は創設同時から総督府の大大的な宣伝攻勢によって杜会の関心が集められなかなかの盛況ぶりをみせた。当時,韓国には鮮展と肩を並べられる民間の展覧会などなかったのである。鮮展以外の展覧会としては,ただひとっ,朝鮮書画協会が1921年第一回展を開いている。朝鮮書画協会は1918年韓国最初の洋画家である高義東が中心となってつくった,いわば,民族美術家たちの集まりと呼べる団体だった。高は1909年韓国人としてははじめて東京美術学校西洋画科に入学している。1915年同校を卒業して京城に帰ってきたものの,東京に比べてみると,画壇はおろか美術団体ひとつない-286-

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