III 鮮展入選作の傾向と問題点89点,鮮展の出品作は1262点という格差を見せている。結局,協会展は1936年15回で故郷の状況があまりにも淋しく感じられたのだろう,伝統書画界の人たちと一緒に朝鮮書画協会を発足させたのである。しかし,書画協会展ははじめから鮮展と競争できるような展覧会ではなかった。1921年の創立展は最初の洋画家の関わった美術団体による展覧会ということで注目されたが,翌年,鮮展がはじまると,総督府主管のこの展覧会が美術の傾向を主導していくことになる。1929年になると,協会展の出品作は終わり,その後植民地期美術の主導権は鮮展が握りつづけていくことになる。書画協会展でなくても,いくら文化政治下とはいえ,あの時代は,力と影響力をもつ在野の集まりなど存在できる時代ではなかったのだ。鮮展の審査結果は言論に大きく取り上げられ,学校では鮮展の団体観覧が美術授業の必修活動になった。そして,画家をめざす若い画学生たちはひたすら鮮展の傾向を習得することに没頭した。はじめて近代的制度による美術と出会った一般の人たちの趣向が鮮展好みの傾向の方へ傾いていたことはいうまでもない。鮮展入選作の特徴を分析する時,かならず考えなければいけないことは,東洋画,西洋画を問わず,日本の影響の問題である。韓国の伝統絵画は中国の‘国画’や日本の‘日本画’のように,たとえば,‘韓国画’とか‘朝鮮画’という名称を持つことができず,‘東洋画’というあいまいな用語が定着してしまった。この呼び方は1980年代になって,韓国の国展改編とともに‘韓国画’を正式な名称として決めるまで使われた。鮮展当時,韓国の伝統画壇では19世紀半ば頃から形成された,文人士大夫文化重視の価値観による文人画が主流を占めていた。鮮展初期の東洋画部では,この文人画趣向の観念的絵と日本画風の絵が共存するようになる。東洋画で日本画の影響が顕著なのは彩色画で,具体的には強烈な彩色,浮世絵のような平面画法,伝統的遠近法の退潮などがあげられる。1920年を前後する時期,日本へ留学し,日本画の技法を習得した画家たちの絵からはそのような特徴がみとめられる。なかでも,金殷稿は彩色美人画の第一人者で,1930年代になると,彼の線描彩色画の画風を追従する弟子たちが師を中心としてひとつの画派を形成していた。金と一緒に東洋画部の大家だった李象範は伝統的水墨淡彩の山水画を描いた南画の大家だったが,鮮展での活動とともに,特に農村の自然を描いた風景画の色彩使用に日本画の_287--
元のページ ../index.html#296