鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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影響があらわれるようになる。金と李は植民地期が終わってからも,韓国の伝統画壇を両分しそれぞれを代表する巨匠になった。したがって,日本画の感覚的要素は韓国画の方にまでおよぶことになった。韓国近代美術を考察する上で,伝統絵画における日本画の影響を問題視する際,洋画はこの問題とはあまり関係なさそうに思われがちだが,しかし,事実はそれと正反対で,むしろ伝統絵画より洋画の方が深刻な問題点を牢んでいる。1910年代から日本の美術学校へ留学した画家たちはもちろん,韓国の画家志望生もおもに日本人の画家や美術教師から洋画の技法を習ったのが韓国における洋画受容のはじまりだったからだ。このことは欧米の美術思潮や理念についての考察はなされないまま,技法だけを模倣する傾向が蔓延してしまう状況をもたらしたのである(注5)。鮮展初期の西洋画部審査委員の顔ぶれをみると,第1回の岡田三郎助をはじめとし彼らはいずれも黒田清輝の弟子もしくは同僚で,その多くが外光派という印象派風の絵画をもたらしアカデミズムの形成にそれぞれの役割を果たした画家たちである。洋画は日本においてもまったく外からのものであることに変わりはない。しかし,それでも日本の場合は自然の外観描写にいく前に西欧の伝統的なアカデミズムの理念を受け入れようとしており,もっと余裕ある受容の段階を経ている。それができなかったということは,何よりもまず技法の面で解剖学に基づく基礎的な人体描写訓練の不在を意味する。鮮展初期極少数にすぎない韓国人の西洋画部入選作品がほとんど風景画だったのもそのためであろう。入選作の人物画と風景画の比率がほぼ同じになるのは景昇,沈亨求らの絵もこの傾向をみせている。それから,当然鮮展で活躍していただろうと思われる高義東は創設と時期をほぼ同じくして早くも洋画界を離れている。以上のように日本の影響は植民地下でその方向の一方性がますますひどくなると同時に決して平等ではないが,いちおうの同化政策で両者がひとつにされていく状況のなかで,複雑な様相をみせていた。とりわけ,洋画の場合は日本から学ぶまえの段階にあたるものがはじめから存在すらしなかったことが,意識しないうちに日本の影響を体質化してしまう結果をもたらしたのである。そして,鮮展美術全般に対していえるのは内容の面で郷土的叙情主毅かはびこった事実である。鮮展ですすめられた傾向は,植民地下の現実からにじみ出る民族の痛みや抵抗の精神とは無関係な,復興調のて2回の和田英作,3回の長原孝太郎,南薫組,4回の辻永などの名前がみられる。1940年の19回展あたりからである。西洋画部の中心画家だった,金鐘秦,李仁星,金-288-

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