鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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注郷土的な画風であった。入選作のテーマの中で特に多いのは,田舎のさびしくてまずしい風景,民族衣装を着た従順な人々の姿である。それは被支配者が自分の現実を直視し,告発することを許さなかっただけにとどまらず,彼らにこれらのテーマを描くことこそが民族性の表現であると信じ込ませる効果も持っていた。むすび鮮展は支配者・日本が植民地でつくった官展だった。総督府が創設にあたって出した趣旨文の中で,“朝鮮における美術の発達を促し,文化の進展に資する目的をもって...”(注6)と語っているとおり,鮮展は他の植民地政策同様徹底した官の方針によって運営された。韓国の画家たちにとって,H本は修練期から活動期を経て画家としての名声を得るまで絶対的な存在であり,鮮展は他に選択肢のない唯一の舞台だった。そして,そこから生まれた美術がそのまま韓国の近代美術になっていた。また,鮮展には本文の中でふれた高木背水以外にも,多くの日本人美術家たちが関わっていた。植民地が内地・日本からは差別される地域だっただけあって,彼らは鮮展のなかで容易に優位の位置を手にいれることができた。鮮展の美術は日本の官設公募展の権威が,木直民の地で次々と生まれるイメージのなかに浸透し,根をおろしていく様子を見せてくれる(注7)。そういう点から,植民地期の官展美術は日本の近代美術史の一部分としても研究が求められる課題であると思われる。本研究者は,この報告をもとに,ふたつの国が共有した歴史におけるイメージの具体的な検証をさらにすすめていきたい。(1) キムユンス「鮮展の残滓とその克服」『季刊美術』1979年秋号田中日佐夫「日本植民地地域における芸術の状況に関する研究一台湾朝鮮半島の美術状況を中心に」平成6年3月『芸術表現におけるイデオロギーー全体主義と文化ー』(別刷)平成5年度科学研究費助成金研究成果報告書千葉大学教養部(4) イグヨル「朝鮮美術展覧会の形成と展開」『近代韓国美術史の研究』ミジン新書(2) 原敬「朝鮮統治私見」『斉藤実文書』9ゴリョ書林影印本1990 pp.61-93 (3) 直木友次郎『高木背水伝』大肥前杜1937 37 P. 422 (5) ユンボムニョン「1910年代の西洋絵画の受容と作家意識」『美術史学研究』1994-289-

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