上人像三重•太子寺善然上人像,京都・仏光寺了源上人像,愛知・無量舟寺了善上ーションをもつ。各地門徒による肖像彫刻造立の風儀は本願寺第八世蓮如の~団再編宗の祖師信仰が後発の浄土真宗・時宗に与えた影響力は多大なものがあるといえるが,肖像彫刻については,浄土宗には多宗派に見られるような広い展開が端的に認められない。このことから浄土宗関係像は,本研究の主たる対象からは,さしあたって割愛することにし,後の補足的研究の段階で加えてゆくこととした。つぎに浄土真宗では,親翌上人が,名号を本尊として礼拝するほかに,善導,源信,法然といった浄土教の祖師の影像を本尊に準じて礼拝するという祖師信仰の宗風が基礎にあり,その後,画像では「安城御影」(建長七年,親翌八十二歳)のような自身の寿像を弟子に与えることをしている。彫像も同様に親鷹像か,初期真宗教団期から親驚の教法の遵守を誓う根本影像として,大谷廟堂をはじめ各地の門徒の間でさかんに造立されたようである。現存の古作例としては新潟・西照寺像,神奈川・東福寺像(以上鎌倉時代),三重・専修寺像,栃木・専修寺像,東京・報恩寺像(以上南北朝〜室町時代)などがあり,初期真宗教団か各門徒ごと特に東国門徒に独立性が強かったこともあり,形姿・容貌にも差異・変化のある展開がみられる。そして,本願寺第三世覚如が,親鷹の血脈を強調する一方,これに反発する各地の真宗門徒の自立を1足したため,各派祖および各派歴代上人などの制作が親壼像同様に広く展開した。栃木・専修寺顕智上人像,群馬・宝福寺性信上人像,茨城・報恩寺同上人像,東京・善福寺了海人像などはこうした背景の元,制作された諸像であり,形姿・作風などに広いバリエ成により,本尊・法式・衣体などの宗儀が統一され,種々の上人肖像が各門徒のレベルで自由に制作することが不可能となる時期までは継続されたようである。以上のことからも,浄土真宗の肖像彫刻の展開は十五世紀中葉までの初期真宗教団期と見ることが出来よう。つぎに時宗の場合,正応二年(1289)宗祖一遍上人が亡くなると,程なく墓所の傍らの堂に等身の肖像彫刻が祀られたことが『一遍聖絵』により知られ,これが,立像形式の一遍遊行像の根本像となる。その後,時衆をとりまとめ教団を確立した実質上の開祖,二祖他阿真教は,遊行上人を「知識」として,時衆は上人に絶対の帰依と制戒を誓うという「知識帰命」の宗儀を確立した。以後,遊行上人は阿弥陀如来の化身とも説かれ,没後も祖師として崇められた。ここに肖像造立が必然的に興り,歴代遊行上人像がつくられた。今日遺る,鎌倉から室町時代に亘る一遍および歴代遊行上人-292-
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