材(左亡失),両手首材(左右亡失)を矧ぎ付ける。頭林内剖して,玉眼嵌入にするが,現状後補の木眼に換わっている。下地の白土地が所々にみられ,もと彩色であったと思われるが,現状は剥落が進み素地状を呈する。本像の,人中のやや窪み,頬がこけ,小鼻が張り,口を一文字に結んだ個性的な面相には意志的な生彩がある。体部の肉取りも的確で,着衣・衣襲表現も簡潔にして,まとまりが良い。作風には栃木・専修寺顕智上人像などに比し,多少洗練の不足を感じるが,逆に東国的ともいえる雄々しさが顕著で,存在感の強い作行きからみても初期真宗教団期,十三世紀に遡る作例と考えてよいと思われる。本像には,「六十ーオ親壼作天福元巳八月祐玄」の墨書があり,天福元巳八月祐玄が当初書かれた部分と思われる。この天福元年(1232)の銘は,像の作風,時代性と照らし合わせても一応矛盾はないと思われ,これを造立銘とみなすことか可能と思われる。寺伝で親喪像とするが,寿像とされる西本顛寺の「鏡御影」や「安城御影」などの画像と風貌は相当異なる。この点について,本像および本像の容貌に類似する神奈川・善福寺の伝親畏像や東京・報恩寺の親喪像などを,親喪の御影の典型が出来上がる以前の東国における親聾のイメージで制作された肖像,と捉える津田徹英氏の指摘があり(注1)首肯すべき高説と思われる。東福寺は,同寺所蔵の光明本尊によれば,親鵞高弟の真仏の流れをくむ麻布・善福寺了源の弟子,海弁の開基と伝える寺で,親鸞が三カ月逗留した伝えをもつ。本像は比較的近年に確認された像であるが,初期真宗の肖像彫刻中の古作であり,在銘としても今後,より高い評価を与えるべき作例といえる。等身像で,内衣・法衣を右前に打ち合わせて着け,その上から平帯状の威儀を結んだ袈裟を着け正面を向き,鉄坐する。両腕とも屈腎して両手を膝上に置き,右手に払子,左手に念珠を握る。両袖は両膝脇から地付きのまま張り出し,先端は三角状につくる。寄木造で玉眼嵌入,構造は頭鉢幹部を前後・正中で矧ぐ四材からつくり割首とし,これに両体側材,両袖先材(各三材),脚部材,裳先材,両袖口材,両手材などを矧ぎ付ける。もとは彩色仕上げと考えられるが,現状は古色を呈する。本像もまた,「安城御影」などと異相の面貌で,東国の親鸞のイメージと思われ,顔つきは壮年期を思わせる。表情は厳格な印象をもつ一見写実的表現だか,その写実には観念的な写し取りが感じられ,あるいは画像を元に制作された様にも思われる。体(2)親鸞聖人坐像東京・坂東報恩寺像高76.0センチ〔図2〕-294-
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