な頭部の形とともに,はなはだ個性的である。作風的には茨城・報恩寺の同じ'性信像と比べ,着衣の簡略な様や,衣文の硬い表現など含め,総じてやや泥臭さを感じるが,威厳や迫力といった点で,宝福寺像に一層の存在感を感じる。制作は性信の没した建治元年(1275)をあまり隔てない頃,東国の在地仏師の手になるものかと思われる。東国を基盤とする,初期真宗教団の性格をよく示す作例ともいえよう。(5)顕智上人坐像栃木・専修寺像高74.6センチ〔図4〕顕智は下野・高田専修寺の三世,二世真仏とともに親喪聖人の直弟子で,高田門徒を率いた初期真宗教団の重鎮ともいうべき人物で,「顕智ひじり」とも呼ばれた。本像は真宗系肖像彫刻の傑作としてつとに有名な作例で,等身で内衣・法衣を着け,その上に袈裟を箔用して坐す。屈腎して膝に置く右手には払子,左手には念珠を執る。両袖先は両膝脇から張り出すが,自然な形で特に強調されたものではない。寄木造で玉眼嵌入,構造は頭鉢幹部前後左右の四材矧ぎ,これに,両体側材,背板材,脚部材,両袖口材,両手首などを矧ぎ寄せる。やや老貌に表された面相は,細面で,顔立ちは跛をよせるが,端正で思慮深く,愁いを含んだような印象がある。体部の造形も的確で,ゆったりと坐った自然な体勢,衣襲を凝らしたまとまりの良い服制など,非凡な作者による造顕が窺われる。頭部内の墨書から,延慶三年(1310)八月二十四日に開眼されたことが知られ,顕智上人が亡くなってから約五十日後に供養された追慕像であることが知られる。本像は真宗系肖像彫刻の白眉ともいえ,その絶頂期を示す作例といえる。〔時宗作例〕本像は元,明治四十一年に廃絶した時宗七条道場金光寺に安置されていた,同寺大檀那でもある七条(慶派)仏師の手になる歴代遊行上人群像のひとつで,群像中最も古く,かつ最も制作優秀な作例である。従来,遊行四代の呑海上人像と伝えられてきたが,近時の解体修理の結果,墨書が確認され,建武元年(1334)に幸俊が造立した与阿弥陀仏,つまり遊行六代ー鎮上人の五十七歳の弁像らしいことが判明した。等身で内衣・法衣を着け,その上に細い威儀を結んだ袈裟を着けて践坐する。両手は屈腎して胸前で合掌する。脚前中央に法衣の結び紐の端を二条みせ,両袖先は膝の両脇から袂を自然にたわめるように張り出す。寄木造で玉眼を嵌入する。構造は頭・体幹部それぞれ前後矧ぎとし,これに両体側材,脚部材,両袖口材,両手首などを矧ぎ寄せ(6)一鎮上人坐像京都・長楽寺像高79.0センチ〔図5〕-296-
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