ている。痔像らしく生き生きとした張りのある面貌をあらわすが,額の形や目鼻,口元の表情などが,あらためて,同じー鎮像とされる新潟・称念寺像や広島・西郷寺像と酷似していると思われる点,注目される。体部の量感のある造形も的確で慶派仏師の作らしい堅実な作風をみせるが,何といっても着衣の衣袈を弧状に深く,切れよく左右相称にリズミカルに切りつけるところにおおきな特徴があり,これこそ時宗肖像彫刻における慶派様ともいえるものである。本像は,時宗肖像彫刻の中核を成す七条慶派系作例の頂点に位置する作例といえる。(7)伝ー鎮上人坐像京都・迎称寺蔵像高81.5センチ〔図6〕迎称寺は,嘉暦三年(1328),遊行六代ー鎮上人の開創で,もと一条堀川にあった一条道場がその始まりである。この寺の開山像としてまつられるのが本像で,内衣・法衣を着け,その上に威儀をつけた袈裟を着け合掌して坐す。膝前中央に法衣の結び紐の端を袈裟下から出す。両袖先は膝頭両脇に袂をたわめて自然に張り出す。寄木造で玉眼嵌入,頭・体幹部とも前後矧ぎで,これに両体側材・脚部材・両袖口部材・合掌手などを矧ぎ寄せる。穏やかな中に内面的な意志を感じさせるような優れた面貌描写,的確なプロボーションの体躯,切れのよい衣文彫出など長楽寺一鎮上人像と同様の慶派系の作風をいかんなく示し,作行きも彼像に勝るとも劣らない。本像につき,以前,時宗々学林学頭であられた故橘俊道氏から伺った話では,この像は元,現在長楽寺にある時宗遊行歴代上人像七躯と同じく,七条道場金光寺に伝来したもので,明治四十一年,同寺が廃絶し諸像が長楽寺に移される折,一鎮上人と伝えられていた本像のみ,一鎮上人ゆかりの迎称寺に譲り渡されたということであった。しかしながら,現在長楽寺の群像中で,以前,伝呑海上人像と伝えられていた像が,解体修理の結果,墨書により,建武元年(1334)に制作された,一鎮上人の痔像であることが判明した。これにより,一鎮像と捉えられてきた迎称寺の像は,顔立ちも全く異相であり,別の像主の可能性が考えられることになった。松島健氏は一鎮上人五十七歳の長楽寺像に対し,本像を一鎮上人最晩年の容貌を写した像とされる(注2)が,筆者は,諸寺の一鎮像に共通する頭部や耳の形,面相の特徴が年齢の推移としては違いすぎると思うしだいで,やはり別の像主であると推定される。では本像の像主は誰かということになるが,この確定は銘証がない以上難しい。あくまで憶測だが,本像が七条道場金光寺の伝来像であ-297-
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