鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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⑮ ロシア・アヴァンギャルドとバウハウスにおける美術教育の諸相1917年10月のロシア革命直後,ロシア・アヴァンギャルドの芸術家たちは,芸術の1914年に既に行なわれていた」とみなしている。こうした彼らの発言からは,芸術が1918年,ナルコムプロス(教育人民委員会)内のイゾ(造形芸術部会)は,モスク研究者:大阪大学大学院文学研究科博士課程(後期)分野における形式上の変革が現実社会での革命に先んじ,何らかの型を与えたことを信じて疑わなかった。カジミール・マレーヴィチは「立体主義と未来主義とは芸術における革命運動であった。それは1917年の経済生活,政治生活における革命を予見していた」と言い,ウラジーミル・タトリンも「1917年に杜会的な関係において起こった出来事は,我々の造形活動の基盤として『素材,ヴォリューム,構成』が置かれた外部の世界から切り離された形で自律的に存在するのではなく,社会変革と呼応しあうダイナミックな営みとして存在する,という認識がうかがえる。こうした認識にしたがって,芸術家たちは革命政権のもとで美術教育の改革に取り組んだが,その中心的拠点となったのがヴフテマス(国立高等芸術技術工房)である。今回は,ヴフテマスの活動をバウハウスとの関係も考慮しつつ跡づけることで,アヴァンギャルド芸術家の実践が,前もって作り上げた自己完結的な理念に守られたものではなく,絶え間ない議論や異なる立場からの批判,社会的諸条件等を反映しなから展開するものである,という一例を示したい。1.ヴフテマスの成り立ちとその活動前史ワ絵画・彫刻・建築学校とストロガノフ応用美術学校を廃止し,他の私的アトリエとともに第一および第二国立自由芸術工房として再編した。ヴフテマスの前身にあたるこれら自由芸術工房は,過去に美術教育を受けたことのない者でも無試験で入学できる,学生が所属すべき工房や指導教官を自発的に選べる,など従来のアカデミーにはない自由な環境が用意されていたが,一方で元の学校にいた教授陣とその学生がそのまま移動したため,アヴァンギャルドの芸術家は少数派にとどまらざるをえなかった。また,各工房の運営は担当教官に一任されていたため,所属する学生は担当教官のスタイルをそのまま受け継ぐだけで,他の工房での成果を身につけることができなかっ清水佐保子-303-

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