た。こうした状況を改善するため,1919年にオリガ・ローザノワを座長とする「芸術と生産」委貝会が作られ,革命後の社会変化に応えるべく新しい美術教育の在り方が議論された(注1)。「芸術的かつ工業的な創造力が,弱体化した工業の立て直しに対してだけでなく,国際的な交換市場におけるロシアの重要性に対しても,大きな役割を果たすべきである」という委員会の指針には,国家の経済的要請に応えるために,芸術の創造を工業的生産活動へと近づけてゆこうとする,構成主義/生産主義の原型が見いだせる(注2)。1920年11月,レーニンは自由芸術工房の再編=ヴフテマス創設の決議書にサインするが,そこには学生の徴兵猶予や教官への優先的食料配給などの優遇措置も盛り込まれていた。ヴフテマスの構成と教授陣ヴフテマスのカリキュラムは,全学生必修の基礎コースと,8つの部門(絵画,彫刻,グラフィック,テクスタイル,陶工,木工,金工,建築)に分かれた専門コースからなる。基礎コースでは,リュボーフィ・ポポーワやロドチェンコといった,構成主義/生産主義の芸術家が中心となって,形式的・客観的分析に基づく芸術の構成原理の探求か目指されたが,基本的にはあらゆる芸術に精通することが前提とされたため,工業的生産活動のための技術的トレーニングは行なわれなかった。もっとも,自由芸術工房と同様に無試験入学を実施したため,美術に関する知識を持たない学生(とりわけ労働者)が大量に入学し,基礎コースにおける概念的な教育に困難が生じた。この点を改善するため,1921年には,基礎コース進学前に基礎知識を身につけるための労働者部門が作られ,バービチェフが予備的教育の改革に当たった。一方,専門コースにおける教育は,各部門に所属する教官たちの指向性によって左右された。ステパーノワが担当したテクスタイル部門,ェル・リシッキーがヨーロッパからの帰国後に担当した木工部門,ロドチェンコやタトリンが担当した金工部門などでは,構成主義/生産主義的傾向が強かった。その一方で,絵画部門や彫刻部門においては,当初参加していた構成主義/生産主義者が,純粋芸術への関心を失うにつれ他の部門に移ったため,より保守的な傾向(アカデミズム,<ダイヤのジャック〉派らのセザンヌ主義)が目立つようになっていった。また,グラフィック,陶工,建築の各部門では様々な流派が混在しており,とりわけ建築部門では,アカデミーの流れを汲-304-
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