む第一部会と,後にくアスノヴァ(合理主義建築家同盟)〉を結成するニコライ・ラドフスキーらの第二部会,さらに第二部会から独立したコンスタンチン・メリニコフらのく実験的建築工房〉が併存することになる。専門コースと芸術の工業化「芸術と生産」委員会での議論やヴフテマス創設の決議書は,工業化に対応しうる専門技術をもった芸術家の育成をうたっていた。したがって,構成主義/生産主義者は,各部門での活動において,芸術を工場の生産ラインに組み込むことを目指した。例えば,ステパーノワが担当したテクスタイル部門では,工場で生産される布地のデザインを手掛けていたが,その多くは工業を想起させる具象的図案か,従来の応用美術的装飾に留まっている。一方,グラフィック部門では,タイポグラフィのセクションが書籍の装丁などに力を発揮したが,スタイル的にはロドチェンコやリシッキーが既に確立した構成主義デザイン(矢印や感嘆符などの記号やサン・セリフの多用など)をそのまま受け継いでいる。こうした中,最も意欲的な活動を展開したのは,木工部門のアントン・ラヴィンスキーおよび金工部門のロドチェンコである。ラヴィンスキーは,生活空間を総合的に構成しうる専門家の育成を目指して,技術の獲得だけでなく経済や歴史の知識も身に付けられる教育を実践した。その成果が形となったのが,1925年のパリ装飾産業博覧会のソヴィエト館のために制作した読書室および労働者クラブであった(注3)。また,ロドチェンコは,有用性や機能主義の観点から,「日常の使用に供する品々をデザインし制作する専門家の育成」と「工場における生産物の質の向上」を目標に掲げ,従来の応用美術からの脱却をはかった。そして,金属産業や機械工場と連携して,学生に現場での実践の機会を与えるようにした。両部門は,1926年に木工・金工部門として統合され,規格化されたユニットを用いた家具の試作品などを手掛けるようになる。住宅が決定的に不足し,家族全員が一部屋で生活することも珍しくなかった社会状況を反映して,複数の機能を兼ね備えたテーブルや折畳み・分解可能なベッドなど,省スペース型の家具が計画されたが,いずれの試作品も実際に大量生産されることはな力しった。-305-
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