2.ヴフテマスとバウハウス10月に当局から突然解雇された直後教え子とソヴィエトヘ渡り,教育施設のための仕カンディンスキー,モホリ=ナジ,マイヤーバウハウスの活動については,ソヴィエト国内でも関心が高かったらしく,バウハウスについて言及した記事や講演の記録,手紙類が残っている。その中には,バウハウスとヴフテマスの間で交換留学制度を始めるべし,という興味深い提案もみられるが,実際に学生の行き来があったかははっきりしていない。また,教授陣の動向については,かつて自由芸術工房で教鞭をとっていたカンディンスキーや,く国際進歩的芸術家会議〉を通じてリシッキーと交流のあったラズロ・モホリ=ナジが,バウハウスに参加している点が注目される。ただ,理念的に構成主義者と折り合いがつかなかったカンディンスキーが,芸術を工業と結びつけるソヴィエト国内の動きをバウハウスにもたらすことはまずありえない(注4)。逆に,ヴフテマスにおいては,基礎コースの分析的傾向や諸芸術を横断する教育という理念に,インフク計画書の名残りがみられるものの,カンディンスキーに工業美術を目指す意図はなかった以上,ヴフテマスの活動に対するカンディンスキーの影響もほとんどなかったといえる。一方,モホリ=ナジの場合,写真に対する技術的関心やインダストリアル・デザイン指向に,ヴフテマスの教育理念と共通する点がみられる(注5)。もっとも,ヴフテマスのグラフィック部門には構成主義/生産主義者が直接かかわっていない上に,写真やモンタージュといった手段がプロパガンダと結びつく過程で,モホリ=ナジの写真がフォルマリズムとして,リアリズム陣営と構成主義/生産主義陣営の双方から否定されたことを思えば,モホリ=ナジの影響がヴフテマスに及んだ可能性は低いといえるだろう。バウハウスとヴフテマスの関係で注目すべき存在として,他にハンネス・マイヤーを挙げることができる。1928年,バウハウスの二代目校長として着任した彼は,バウハウスの工房における活動が,工業的大量生産という面でも消費者のニーズに応えるという面でも,不十分な成果しか示していないと感じた。こうした状況を打破するために,マイヤーはエ房編成の改革を通じて,工業化や大量生産に適したジャンルを教育の中心に据えるとともに,外部の工場と提携して商品化を進めることで実践的な教育を目指した。こうした点は,ヴフテマスで構成主義/生産主義者が行なっていた活動と非常に近い。マイヤー自身ソヴィエトでの動向に共感を抱いていたらしく,1930年事に従事している。一方,バウハウスの内部では,マイヤーの方向性と同調する形で-306-
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