―-307-一部学生が機能主義的傾向を強め,マイヤー解雇の直前には,カンディンスキーの予備課程を形式重視で個人主義的と非難するに至ったが,ヴフテマスの基礎コースに対しても,『レフ(芸術左翼戦線)』誌上で「生産を無視している」という批判が展開されている。ただ,カンディンスキーが,あくまでも絵画的関心に基づく予備課程擁護の論陣を張ったのに対し,ヴフテマスの基礎コースの大半を占める構成主義者は,インフクや『レフ』誌での議論をふまえて,数回にわたりコース編成を各工房の活動に対応したものへと手直しした。その結果基礎コースは,形式的分析に固執するという限界は残しながらも,木工・金工部門と並ぶ構成主義/生産主義の砦となるのである。バウハウスから見たヴフテマスの問題点構成主義の牙城と化したインフクと異なり,ヴフテマスはアカデミズムから構成主義までが入り乱れる不安定な機関であった。したがって,自由芸術工房において問題となった各部門間の結びつきの弱さは,最後まで解消されなかった。「レフ」誌第2号純粋主義者と対立し,他方で手工業的応用美術の支持者を工業美術に向かわせようとする,構成主義/生産主義者の複雑な立場が述べられている。こうした異なる立場の軋礫や意見対立は,バウハウスでもしばしば見られた現象である。しかし,個人主義/精神主義的なヨハネス・イッテンと集団主義/合理主義的なヴァルター・グロピウスが,工房と学外の工場の提携をめぐって対立したとき,グロピウスは辞任したイッテンの代わりにより合理主義的傾向の強いモホリ=ナジを指名することで,初期バウハウスの方向づけに貢献したイッテンを失うという危機を,逆に現実に即した教育理念への転換に結びつけることができた。だが,そもそもバウハウスは,グロピウスが構想を練り,教育方針の決定から人選まで行なった機関だった(注6)のに対し,ヴフテマスにそのような求心力を持つ指導者はいなかったといってよい。加えて,ヴフテマスには芸術の工業的生産プロセスの確立をめぐる困難が存在していた。経済の現状が根本的に大量生産に追い付いていなかった上に,1921年の新経済政策(ネップ)期に登場した新興ブルジョワは,芸術と工業の統合を通じて新しい杜会を建設することに,ほとんど興味を持っていなかった。テルテンの集合住宅や食器,家具など,規格化による大量生産を一部でも実現させたバウハウスとは異なり,ヴフテマスの工房が大量生産にこぎつけたのは印刷物や布地デザインぐらいで,それらは(1923年)に掲載されたヴフテマスの現状報告では,一方で芸術を生産から切り離す
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