(5) 彼が着任した1923年は,ちょうどバウハウスが手工業に基づく中世ギルド的共同(6) グロピウスが教育機関の設立に携わることになったのは,1915年にヴァイマール(7) ロシア・アヴァンギャルドの研究におけるこうした変化に関しては,PaulWood, (2) 構成主義は,インフク内部のく客観分析グループ〉,およびその発展形である<構(4) カンディンスキーは,バウハウスが集団主義や工業美術志向を強めることに対し,され,カンディンスキーは1920年末にインフクを去ることになる。彼が去った後に再編された理事会には,<客観分析グループ〉のメンバーであるアレクサンドル・ロドチェンコ,ワルワーラ・ステパーノワ,アレクセイ・バービチェフらが加わり,バービチェフによって「理論的・実験的原理にもとづいた新しい,合理的な研究計画(ボウルト)」が作成された。成主義者第ー作業グループ〉での議論を通じて,1921年の春頃に形成された。生産主義は,1921年11月24日のインフク総会における,オーシプ・ブリークの「生産における現実的かつ実際的な作業に着手する」という呼び掛け,および彼に同調した芸術家たちによる「工業美術の絶対性と,その唯一の表現形式たる構成主義」の宣言によって成立した。ただ,構成主義が実践において成果を示しえたのに対し,生産主義は「工業や日常の用に供する現実の品々の生産に芸術が関わっていくという思想への,極めて全般的なコミット以上には用い得ない(ロダー)」言葉であり,ほとんど理論だけの存在に終わったといえる。(3) メリニコフが設計し,ロドチェンコが展示を監督したソヴィエト館は,外国館のグランプリを獲得し,ロシア・アヴァンギャルドに対する西側での関心を高めるのに貢献した。こうした,海外での評価を意識した活動についても,今後検討する必要があるだろう。幾度も苦言を呈している。また,1931年の『抽象芸術論考』(『カイエ・ダール』誌掲載)では,構成主義批判を展開している。体から,工業的大量生産を目指すモダン・デザインの学校へと変わりつつある時期であった。工芸学校長アンリ・ヴァン・ド・ヴェルドが,彼を後継者に指名したことがきっかけである。したがって,グロピウスは全権委任を与えられる形で事に当たることができたが,彼が辞任してからのバウハウスは逆に求心性を失い,政治的軋礫ともあいまって混迷を深めることになる。-310-
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