じねん③ 戦後前衛美術における「日本的なもの」1)は,1956年の「世界・今日の美術展」などを契機とするアンフォルメル受容によ研究者:北海道立旭川美術館学芸員中村聖司はじめに抽象主義とシュルレアリスムを二つの本流として出発した戦後日本の前衛美術(注って大勢としては決定的に姿を変えていったが,それまでの約10年間に三つの大きな課題に突き当たっていた。時系列的にあげると,まず浮かび上がったのは抽象とシュルレアリスムの統一あるいは綜合という課題である。ついでリアリズムとの関係が問われ,前衛は自然主義的描写を超えた新しいリアリズム表現であることが要請されるようになる。そして三つ目,1950年代前半に浮上してきたのが“日本的なもの”という課題であった。日本的なもの,などH本人の営為ににじみ出る自明の性質,という思いは一般的実感として今日なお根強い。一方,それが実は近代日本の制度によって形成されてきたものであり,政治的イデオロギーに基づく近代日本国家の制度性を隠蔽し自然性を装わせる役割を果たしてきたことを指摘して,そうした実感を解体しようとする試みもさまぎまな文化領域で繰り広げられている。その作業は広い意味でのイデオロギー批判として今日重要性を増しこそすれ,失ってはいない(注2)。そうしたイデオロギー批判の重みが,特に政治的イデオロギー批判として戦後まもなくの日本人にものしかかっていた事実は,いくつかの保留をつけてもなお,認めなくてはならない。彼らにとって“日本的なもの”はつい数年前の昭和ファシズムの記憶に直結した。それは戦後まもなくの社会にとって政治的“反動”の危険を帯びており,タブーのひとつでさえあったのだ。その危険性を用心しつつ,日本美術に“日本的なもの”を取り戻さなくてはならない。それが,先述の第三の課題であった。そして前衛美術がモダニズムの先端に位置しなくてはならなかったがゆえに,第三の課題には安易な解決を拒む困難さがともなわざるを得なかったはずである。むろん,前衛すべてがその困難さをひきうけたわけではないが。本論は,1950年代の前衛美術における課題“日本的なもの”への取り組みについて,その実態と成果を探るものである。本論と共通する問題を扱った研究として,1996年に目黒区美術館で開催された展覧-23-
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