⑯ 平安時代兜跛毘沙門天彫像の研究像七•五二八)に見るような地天が支える外套様の鎧を着した西域風の姿形であった研究者:奈良県教育委員会事務局文化財保存課技師神田雅章はじめに東寺宝物館の請来像に代表される兜跛毘沙門天像は,九世紀初頭に入唐僧によりもたらされて以降,平安時代約四百年の間に,北は東北から南は九州まで全国的に展開し,今日では八十近い作例が知られるようになった。わが国では地天が支える毘沙門天を兜践と呼んだようだが(注1)'所依の経軌を欠くため,「兜跛」の語義や図像についての規定は不明確で,一般形(以下,地天の有・無で,兜政形・一般形と区別する)との信仰上の違いも明らかでない。多くの作例を網羅的に調査し,服制を中心とした図像上の諸形式に基づき,西域型,唐型,折衷型などに分類し,いくつかの系統や,地域的な特色を見い出そうとする試みは既に先学によってなされているが(注2)'その姿形の違いの意味についてはいまだ解明すべき点も多く残されている。ここでは起源論や図像上の分類整理は繰り返さず,形の持つ意味に着目しながら,当時わが国で,この特殊な尊像がいかに信仰されていたかを,いくつかの観点から描き出してみたい。形と信仰の諸相唐の玄宗皇帝の頃に干闇より本格的に伝わった毘沙門天像は,智泉様図像(大正図と考えられるが,日本にもたらされるまでの間に,既に唐風にアレンジされ,様々なバリエーションを生みだしていたことが東寺像も含めた大陸の遺品からうかがえる。従来,西域型を東寺像,唐型を『別尊雑記』所収の前唐院図像(大正図像三・六三六)で代表させ,わが国の兜跛形の二大系統のようにとらえる傾向があるが,形式上の分類にとどまり,必ずしもその祖型は限定できない。唐型をめぐっては,①前唐院図像,②同形の立像であったとされる比叡山文殊堂の伝判国道造立像,③その形を今に伝える成島毘沙門堂像,というひとつの系譜が指摘されているが,文殊堂に二謳あった兜跛毘沙門天像のうち,何故に西域型の伝最澄自刻像でなく唐型の伝判国道造立像なのか,また,円仁の毘沙門天信仰を具現化した首榜厳院の毘沙門天像がどのような姿形であったのか,観音・不動・毘沙門の三尊形式-312-
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