の遺例中にも兜跛毘沙門天は見いだせず,その継承のあり方を探ることは難しい。これに対して西域型は,清涼寺像と奈良国立博物館像が,東寺像の模刻という点で,外套用の鎧のみを理由にくくられる他の作品とは区別されるべき一つの系統を示している。これは安西城霊験輝と結びつき,平安京羅城門安置の伝承を持つ東寺像が,清涼寺の釈迦像同様,霊験あらたかな像として認識されていたことを物語るが,東寺像の伝来とあわせて模刻にいたるまでの経緯は詳らかでない(注3)。なお,東寺像を根本像として評価するあまり,西域型の変容は,ともすると写し崩れや,霊像としてのシンボルの喪失といった,消極的な評価に結びつきかねないが,既に見たように東寺像の模刻も,図像と信仰の受容,継承の様々なあり方のひとつととらえる方が無難であろう。時代は降るが,比叡山文殊堂像について『九院仏閣抄』は西域型の最澄自刻像を「屠判様,兜跛国,身体細」,「兜跛国利益毘沙門形像」としながら,一方で,同じく「屠判様」とされる唐型の判国道造立像には「兜跛国」の注記は付さない。この「兜践国」については,仁平四年(1154)静然撰『行林抄』が引く「大梵如意兜跛蔵王呪経」(『阿娑縛抄」に「新渡ノ経」とする)に「兜践蔵王。其威徳亦如毘沙門天王(中略)。権現兜践国大王形像」と見え,『阿娑縛抄』所引の「雙身八曼荼羅抄」(金剛智訳,法性房抄とされる)にも「都鉢羅国」とあり,当時,「兜跛」を国名と解することが,ひとつの考え方として定着することがうかがえる。このことは「兜践」の語源を子聞国を指す古代トルコ語とする近年の説に照らすと興味深いが,事相書に見る兜蚊国はあくまで実在しない空想の国のようである。「屠判」と「兜践」はもともと語源は同じと思われるが,『九院仏閣抄』編纂時には,「屠判」の原義は失われたのか,西域型の最澄像のみを兜跛国の毘沙門天と見なしたらしい。このような兜践国と西域型の服制を結び付ける考え方がどこまで遡り,普遍化できるかは問題だが,兜故なる国はどこか異国的イメージを喚起させることから,エキゾティックな西域型の姿と重なっても不思議ではない。兜跛毘沙門天に備わるこの異国性が信仰上及ぼした影響は決して小さくはないはずであり,その究明は今後の課題となろう。一方,足下の地天については,わが国の例(東寺像の模刻を除く)が,いずれも髪を長く垂らす女神像風に表され,髯を結い上げる大陸の例と異なり,初期の段階から際だったお国振りを示す点が注目される。このことも作用してか,一部の作例については仏教の教義を越えて神像に近い位置付けをする見方もなされている(注4)。ただ-313-
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