し,『白宝口抄』毘沙門法上には,「問。地天与吉祥天同体。其證拠猶有此乎」に対し,空海の『金勝王経秘密伽陀」の「大吉祥天女諸母堅牢地神不動心」を引用し,地天・吉祥天同体を示す問答も見え,東寺講堂多聞天像地天の与願・施無畏のような手勢(現在のものは補作だが『東宝記』にも同様の形状の記述がある)と考えあわせて留意される。兜跛形は,東寺講堂像や西大寺十二天画像の例から,時には群像にとりこまれ,一般形と互換性のあったことがうかがえる。地天を表すことの意義については,儀軌とは別の面からの考察も必要と思われる。入唐八家以降玄宗皇帝の時代に始まった毘沙門天信仰は廃仏の影響をうけながらも宋代まで衰えることなく,皇帝から民衆にいたるまで幅広い層に支持された。『旧五代史』には,精泰二年(935)正月庚申のこととして「鄭都進天王甲,帝在藩之時,有相士言,帝如毘沙天王,帝知之窯喜,及即位,選軍士之魁偉者,被以天王甲,伴居宿衛,因詔諸道,造此甲而進之」(『旧五代史』四七)と興味深い記事が見える。かつて在藩時に毘沙門天のようだと言われ気をよくした廃帝は,即位するや体格のよい軍士に「天王甲」を着せ,さらに諸道に命じて「天王甲」を造らせたとあるが,ここにいう「天王甲」とは一体どのようなものであっただろうか。「甲」は頭に被る兜の意味もあるが,「魁偉」(体つきがめだって大きい)とあることからも,ここでは身にまとう大きな鎧を想定したい。これが外套様のものであったかどうかは知り得ないが,当時一般に着用したものとは異なる,毘沙門天の姿に通じる形状のものであったことが予想される。廃帝を毘沙門天に例え,武将に天王甲を着せるのは,わが国で藤原道長の「かたち・ようたい」を「毘沙門のいき本(勢い)」に例えたり(『大鏡』第五巻),坂上田村麿を「毘沙門の化身」とする(『公卿補任』弘仁二年条)のに先立ち,権力者や武人を毘沙門天になぞらえる先例として注目される。廃帝は深く毘沙門天を信仰していたようで,その翌年には,「宮城之上有祠,曰毘沙門天王,帝曾焚修,黙而疇之,城西北闇正受敵処,軍候報称,夜来有一人長丈余,介金執交,行於城上,久方不見,帝心異之」(『旧五代史』七五)と,安西城霊験諜さながらのエピソードも残している。毘沙門天が敵兵を駆逐して国を守った霊験諏は,いまだ玄宗時代の遠い昔の物語ではない。この頃,朝鮮半島では新羅が滅び,東アジア全体が揺れていた。わが国でも平将門の乱や藤原純友の乱が起こり,純友の乱の際に-314-
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