鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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し、は,明達が毘沙門天調伏法を修している。遣唐使廃止以降の大陸の影響は定かでないが,『阿沙縛抄』には先述の「大梵如意兜跛蔵王呪経」の他にも「大乗毘沙門経三巻」等の「新渡」の経が見える。裔然や成尋など,入宋僧のもたらした影響も,明らかにはしがたいものの,やはり考慮すべきであろう。延久四年(1072),入宋した成尋は,越州の船上で「多聞天太子井脊属」の夢を見ている(『参天台五憂山記」四月十一日)。これが何を意味するのか,日記からはうかがえないが,東寺像に似た宝冠や海老籠手を表す毘沙門頭図(大正図像七・五二八)にある「石蔵定順」の注書が,岩倉大雲寺の成尋その人を指すとする説も改めて注意される(注5)。やや時代は降るが,大念仏寺に伝わる毘沙門天画像は地天こそ見えないものの,西域型の鎧で身をかためた堂々たる姿で,請来画の強い影響を受けた鎌倉時代の作か,あるいは請来画像そのものの可能性も指摘されている(注6)。また,信貴山朝護孫子寺に伝わる鋳銅製の小像は,現状地天は欠いているが,外套様の鎧をつけ,胸甲,獅噛を表さない,東寺像よりも西域型を忠実に伝える希有な遺品である。鎌倉時代ともいわれるこの像は平安時代に遡る可能性もあり他日に期したいが,東寺像を祖形としない西域型の遺例として今後,注目すべき作例のひとつである。兜践毘沙門天の遺例の多くが平安時代後半の作であることからも,四百年にわたる平安時代をひとくくりに論じることは難しく,入唐八家以降の大陸の影響は看過すべきではな現存作例の問題点(1)達身寺の場合わが国の作例を概観したとき,他の尊格と異なる際だった特色のひとつに,中央の大寺にほとんど見られず,辺郡な場所の一ヶ寺に数多くの遺品が集中して残ることがあげられる。これは山陰・山陽地方に顕著で,流出分も含めると二十一鉢を数えるという兵庫達身寺(注7)をその筆頭とし,同(城崎)温泉寺,京都(福知山)威徳寺ゃ,さらに,一般形が主だが岡山(倉敷)安養寺もその数の上で注目される。また,多数とまではいかないが,二,三の作例を残す寺院ならば,鳥取観音寺,島根万福寺,京都(亀岡)万願寺なども加えることができよう。『峯相記」に,天平宝字八年,播磨因分寺で弘曜が兜践天を本尊に新羅調伏のために秘法を行い,他十寺を祈躊所にしたことや,『法華験記』にみえる,山陰道のある寺で鬼神に襲われた僧が腰に毘沙門天像を抱えて念じたところ助かり,像の所持する刀に血がついていた話など,いずれも説゜-315-

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