話の域は出ないが,この地域の兜践毘沙門天信仰の一端を伝えるところがあるかもしれない。上記作例を通観すると,平安時代中・後期の一木造りになる素朴な像が多く,それぞれ似たような地方寺院としての歴史を経てきたためか,総じて保存状態に恵まれず,破損仏の類に含まれるものも少なくないことに気づく。このような現象の背景として,衰退・廃絶する寺院の仏像を地域の有力寺に集めたとする説や,あるいは中央有力寺院の柚山があったとする説などがあるが,仮にそのような事情を想定できたとしても,中央でも遺例の少ない兜跛毘沙門天像の盛んな造像の説明としては充分でない。また達身寺について,兜践毘沙門天を専門に造った仏所跡とみる説もあるが,仏所の歴史に照らしてもにわかには受け入れ難い。特殊な尊像のおびただしい造立は,京都大将軍八神社の五十鉢に及ぶ武装神像の存在を想起させ,やはり何か特殊な信仰のあったことが予想される。多数の作例という点では,安養寺に残る,百八鉢の毘沙門天を祀ったとする寺伝も注意される。この百八毘沙門天の伝承は,岩手天台寺,同達谷窟,福島大蔵寺などにもあり,子細に訪ねれば恐らくまだ各地に認められることも予想される。百八という数が何を典拠とするのか明らかではないが,『北方毘沙門多聞宝蔵天王神妙陀羅尼別行儀軌』には「若毎日誦真言ー百八遍。滅去身中ー百八劫罪」とあり,『摩詞吠室噂末那野大提婆喝囁闇陀羅尼儀軌』にも真言をー百八遍誦すことによる数々の効験が説かれ,『吾妻鏡』治承四年八月十八日の条には,所願成就子孫繁昌のために観音経,痔命経,毘沙門経などとともに毘沙門呪ー百八反誦すことが見えている。しかし百八鉢の造像は知られる限りでは後世の伝承の域を出るものではなく,達身寺の例を見ても像高や作風図像の違いを見れば寄せ集めの感があり,安養寺については,いずれも等身大で,後世に四天王を改造したと思われるものや,江戸時代に補われたものが多数あることから,後世に数を揃えようとした意図も伺えなくはないが,いずれにしろ平安時代に遡る局地的造像の理由にはならない。そこで注目したいのが,むしゃこうじみのる氏の指摘された路傍のサイノ神に通じる地域の境界鎮護の像と見る説である(注8)。男女一対のサイノ神に,地天女が支える兜跛毘沙門天との共通点を探ろうとする試みは,兜跛形であることの意義にも関わることだけに興味深く,また神奈川朝日観音堂像が足柄関に,静岡鉄舟寺像が清見関に近く位置するという関所との関係の指摘も,あわせて傾聴すべきであろう。このよ-316-
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