うな視点は,造像と信仰の場を有力寺院という一点から解放することで,おびただしい数の造像や,破損仏が一ヶ寺に集まることの解明につなかる可能性をも持つと思われる。ただし文献的な裏付けがなく,兜跛形という特殊な尊像を民間信仰レベルで論じることが可能かどうか,また,国郡単位から国家にまでその範囲を広げる時,例えば関の寺として著名な逢坂関寺や,平泉中尊寺に毘沙門天が見られないことなど,残される課題も少なくない。現存作例の問題点(2)成島毘沙門堂の場合上述のように兜蚊毘沙門天像の多くが造像背景が不明な中で,成島毘沙門堂像は,北方鎮護やエミシ鎮圧という明確な造像目的が指摘されてきた点で注目される像である。無論このような見方に対する反論もこれまでに少なくないが,本像については,作品研究が進まぬまま,中央側と地方側のどちらに比重を置き評価するかで主観的な論を繰り返してきた感があり,制作年代も含めて再検討が必要と思われる。詳細は別にゆずりたいが,まず制作年代については,構造技法上,両臀に内剖を施し,欅(体幹部)と桂(両臀・地天の面部等)の二種の異材を併用するなど,進んだ手法が見られること(異材併用は十世紀末の京都禅定寺の諸像に典型を見る),また服制上,左右が分離し装飾化した胸甲や,背面を大きく覆う獣皮,三角型の頭飾等の諸特徴が,正暦元年(990)頃の法隆寺講堂四天王像,永延元年(987)頃の兵庫円教寺四天王像同年頃の東寺行道面(毘沙門天)等の十世紀末の基準作例に認められること,さらに作風上,正面観では重厚で動きがあるものの,側面において起伏に乏しく硬直し,鎧や衣の表現も大味であること,などの理由から,造立年代は久野健氏の,天徳二年(958)の宮城双林寺薬師像より降らないとする説(注9)より下げて,ここでは十世紀末頃と推定したい。一方,造像背景の北方鎮護については,都が京都におかれた当時,北国といえば佐浪など日本海側を指し,陸奥は東国であったことをまず確認すべきである。エミシの呼称も陸奥は東夷越後・出羽は北秋と呼ぶのが常だった。彼らの土地を指して『日本書紀』に「東北」,『性霊集』に「艮垂」(東北のはて)の用例があるが,これらは東夷・北狭を複合的に言うか,もしくはエミシの杜会的身分を強調するため,ことさら鬼門の方角を用いたものと思われ,今日的な意味での東北の用例は幕末を待たねばならない。北方鎮護ならば,九世紀以降,元慶の乱はじめエミシ争乱の中心舞台となっ-317-
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